河上肇(読み)かわかみはじめ

精選版 日本国語大辞典 「河上肇」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐はじめ【河上肇】

経済学者。法学博士。山口県出身。東京帝国大学卒。千山万水楼主人の名で新聞無我愛を説くが、のち京都帝国大学教授となり、しだいにマルクス主義経済学没頭教壇を追われてからは労農党に関与し、日本共産党に入党。「赤旗」の編集にも関係した。昭和八年(一九三三)検挙され、五年後出獄。著「資本論入門」「経済学大綱」「自叙伝」「貧乏物語」など。明治一二~昭和二一年(一八七九‐一九四六

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デジタル大辞泉 「河上肇」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐はじめ〔かはかみ‐〕【河上肇】

[1879~1946]経済学者・社会思想家。山口の生まれ。京大教授。マルクス(主義)経済学の研究・紹介に努め、大学を追われた。のち、日本共産党に入党、検挙されて入獄。著「資本論入門」「経済学大綱」「貧乏物語」「自叙伝」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇
かわかみはじめ
(1879―1946)

経済学者、思想家。明治12年10月20日山口県岩国に生まれる。山口高等学校を経て、1902年(明治35)東京帝国大学法科大学政治科を卒業。学生時代に内村鑑三(うちむらかんぞう)、木下尚江(きのしたなおえ)らの講演を聞き、キリスト教に接して初めて内面の世界を意識した。1901年足尾(あしお)鉱毒問題で婦人鉱毒救済会の講演と募金活動に出会って、聖書の山上の垂訓「汝(なんじ)に請う者に与え、借らんとする者を拒むな」を実践すべく、その場でコートと羽織を脱いで寄付し、さらに下宿に帰って衣類など持ち物いっさいを行李(こうり)に入れて救済会に送り届け、『毎日新聞』に奇特の士として記事になった。大学卒業後、東京帝国大学農科大学の講師となり、専修学校や学習院などで農政学を教えた。1905年『読売新聞』に千山万水楼主人の筆名で「社会主義評論」を連載、諸家の社会主義論を縦横無尽に批判し、世評を高めるに至ったが、仏教思想家伊藤証信(1876―1963)の無我愛の運動に共鳴、連載途中で筆を折り、自らの心境を紙上に告白してのち、いっさいの教職を辞して証信の活動拠点である無我苑(むがえん)に参入した。しかし2か月ほどでこの運動に失望して無我苑を去り、『読売新聞』記者となる。大学卒業後この間に『経済学原論』上巻(1905)、『日本尊農論』(1905)、『日本農政学』(1906)などの力作を次々と発表し、新進気鋭学徒としての評価も定まった。1907年『日本経済新誌』を創刊、編集主幹として、田口鼎軒(たぐちていけん)(田口卯吉(うきち))主宰の『東京経済雑誌』が主張する自由貿易論=商工立国論に対抗して、保護貿易論=農工商併進鼎立(ていりつ)論を主張し、激しい筆陣を張った。それはドイツのフリードリヒ・リストが行った保護貿易論と類似しており、明治政府の国策と結び付く政商型大資本に対し中小資本の利害を代弁するものと評しえよう。1908年京都帝国大学に招かれて講師となり、経済史を教える。このころ『人類原始の生活』(1909)、『時勢之変』(1911)、『経済と人生』(1911)を刊行した。1911年4月1~8日沖縄に地割制調査に赴いたおりに、現地での講演が誤解を受け、有名な「沖縄舌禍事件」を引き起こした。このとき沖縄学の創始者伊波普猷(いはふゆう)と相識となる。1913年(大正2)ヨーロッパに留学、第一次世界大戦に遭遇して1915年に帰国するが、その間『大阪朝日新聞』に寄稿したのを『祖国を顧みて』と題して刊行(1915)、ユニークな東西比較文明論を展開した。

 1916年9月から12月まで『大阪朝日新聞』に連載した『貧乏物語』は河上の名を一躍有名にし、大内兵衛(おおうちひょうえ)は「日本の経済学の転機の前奏曲」と評した。河上はこのころから社会問題への関心を急速に深めていき、1919年、個人雑誌『社会問題研究』の刊行とともにしだいにマルクス主義に接近していった(『社会問題研究』は1930年10月、第106冊で廃刊)。1923年に公刊した『資本主義経済学の史的発展』は彼独自の構想になる経済思想史であったが、櫛田民蔵(くしだたみぞう)の『改造』所載の論文「社会主義は闇(やみ)に面するか光に面するか」によって根元的な批判を受けた。これを機に河上はマルクスの理論と根本から取り組み、京大での経済原論の講義もほとんど『資本論』に即するようになる。彼の理論的代表作『経済学大綱』(1928)は、その成果を示している。1928年(昭和3)『マルクス主義講座』の推薦文で筆禍を招き京大教授の職を辞した。爾後(じご)、政治実践の場に身を投入し、大山郁夫(おおやまいくお)と新労農党の発展に尽力するが、大山と意見対立して別れ、日本共産党の立場にたって政治運動を行う。1932年正式に党員となり地下運動に入ったが、翌1933年1月検挙され、治安維持法違反で懲役5年の判決を受け、理論的非転向の態度を貫いて1937年6月まで獄中にあった。1941年京都に住まいを移し、「閉戸閑人(へいこかんじん)」を自称、『自叙伝』の執筆、漢詩の作詩・鑑賞の生活を送った。1945年の敗戦によってふたたび脚光を浴びることとなったが、身体の衰弱甚だしく、肺炎を併発し、翌1946年(昭和21)1月30日没した。若年のときに悟得した宗教的真理の存在を最後まで確信し、社会科学的真理との両立を主張するユニークな日本のマルクス主義者と評される。

[住谷一彦 2016年8月19日]

『『河上肇全集』第Ⅰ期28巻、第Ⅱ期7巻・別巻1(第Ⅰ期1981~1984、第Ⅱ期1984~1986・岩波書店)』『『河上肇自叙伝』第1~5巻(岩波文庫)』『天野敬太郎編著『河上肇博士文献志』(1956・日本評論新社)』『古田光著『河上肇』(1959/新装版・2007・東京大学出版会)』『住谷悦治著『河上肇』(1962/新装版・1986・吉川弘文館)』『大内兵衛著『河上肇』(1966・筑摩書房)』『山之内靖著『社会科学の方法と人間学』(1973・岩波書店)』『住谷一彦著『河上肇の思想』(1976・未来社)』『杉原四郎・一海知義著『河上肇――学問と詩』(1979・新評論)』『住谷一彦著『河上肇研究』(1992・未来社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇 (かわかみはじめ)
生没年:1879-1946(明治12-昭和21)

マルクス主義経済学者。山口県生れ。1902年に東大法科大学政治科を卒業以来33年共産党員として検挙されるまでの30年間経済学者として活躍,誠実な思想的遍歴と希代の文才による旺盛な著述とで,その影響は広く中国にも及ぶ。初期は,経済的歴史観・限界効用学派の研究や,国民的生産力向上策としての保護貿易論,農工商調和論を唱える一方,利己心と利他心の相克という問題意識から社会主義にも関心を寄せたが,これは“求道の戦士”といわれる彼の生涯の課題となる。08年京大講師に招かれ,15年教授に昇進。《大阪朝日新聞》に連載後公刊した《貧乏物語》(1917)で文名大いにあがる。19年個人雑誌《社会問題研究》を創刊してマルクス主義の研究と普及に努め,さらに《資本主義経済学の史的発展》(1923)に対する櫛田民蔵の批判を機に,マルクス主義哲学に研究を進めるとともに,漸次実践運動とのかかわりも生じる。28年京大を辞職,《資本論入門》(1932)を最後に政治運動に入り,33-37年獄中生活を送るが,思想的節操は守った。晩年は《自叙伝》(1947-48)や《陸放翁鑑賞》(1949)などを執筆。46年1月新時代の到来を喜びつつ栄養失調症で永眠した。代表作は《河上肇著作集》12巻(1964-65)に収録,全集33巻(1982-)も刊行された。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「河上肇」の解説

河上肇

没年:昭和21.1.30(1946)
生年:明治12.10.20(1879)
明治から昭和期にかけての経済学者,思想家。山口県錦見村(岩国市)の下級士族の家に生まれ,岩国学校,山口高等学校を経て,東京帝大法科に入学。高校時代には国家主義的で,詩人志望だったが,民党が政権に就いたのをみて,にわかに法科に転学したのである。上京した河上は,木下尚江,内村鑑三らの演説を聞き,聖書を読み,「絶対的な無我主義」に心を惹かれ,足尾鉱毒救済のために身につけている以外の一切の衣類を寄付するという異常な行動に出た。明治35(1902)年大学卒業後,農科大学実科の講師となり,経済原論,農政学業を教えるとともに刻苦して経済学を学び,38年『日本尊農論』『経済学原論』上巻などを出版。さらに「社会主義評論」を『読売新聞』紙上に連載中,トルストイの「我が宗教」を読んで感激し,一切をなげうって60日ほど伊藤証信の無我苑に入苑して伝道したが,この間に「自我滅却,大死一番」の「宗教的真理」を体験した。41年京都帝大講師,大正4(1915)年同教授。経済学史,経済原論を担当。学説的には,はじめは当時の欧米の学説によっていたが,次第に社会主義に惹かれ,はじめは人道主義の立場を守っていたが,「経済原論」の講義も,大正14年以後は『資本論』の解説に終始するようになった。マルクス主義と『資本論』に傾倒するにつれて,思想的にも櫛田民蔵,福本和夫の批判を受け容れ,唯物弁証法を基礎とするようになり,完全なマルクス主義者に脱皮した。昭和3(1928)年京大を辞職,同7年日本共産党に入党し,入獄。その行動は彼独自の「無我」の真理に直結していた。出獄後『自叙伝』を執筆。生涯共産主義を棄てなかったが,同時に常に真理を求め,宗教的求道者の道を歩んだ特色ある経済学者であった。

(中村隆英)

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百科事典マイペディア 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇【かわかみはじめ】

経済学者,社会運動家。山口県出身。東大卒後,東大,学習院などの講師を歴任。資本主義社会の利己と利他の矛盾の解決を絶対的利他主義に求めて,1905年教職を辞し伊藤証信の無我苑にはいったが,その誤りを批判。1908年―1928年京大で経済学を講じ,マルクス経済学を考究,大学を去って大山郁夫らと労農党を結成。1932年共産党に入り《赤旗》編集に参加したが,逮捕され服役。1937年出獄後,隠棲し《自叙伝》を執筆,戦後再起を決してまもなく没した。主著《経済学大綱》《資本論入門》《貧乏物語》。
→関連項目宇都宮徳馬森戸事件労学会

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河上肇」の意味・わかりやすい解説

河上肇
かわかみはじめ

[生]1879.10.20. 山口,錦見
[没]1946.1.30. 京都
経済学者。啓蒙的マルクス経済学者として大正,昭和初期の左翼運動に大きな影響を与えた。 1902年東京帝国大学法科大学政治科卒業。同大学農科大学講師のほかいくつかの教職を歴任後,一時新聞記者,さらに『日本経済新誌』を主宰。 1908年京都帝国大学講師,1909年助教授,1915年教授。この間 1913~15年にはヨーロッパへ留学,帰国後 1917年『貧乏物語』,1918年雑誌『社会問題研究』を刊行するとともにマルクス主義の体系的な把握に努める。 1928年教授辞職後,大山郁夫らと労農党を結成する。 1932年地下運動に潜入,日本共産党に入党し『赤旗』の編集に参加。 1933年検挙され,1937年まで入獄,獄中で『獄中記』『獄中贅語』を執筆。以降 68歳で病没するまでもっぱら『自叙伝』を執筆。著書はほかに『資本主義経済学の史的発展』 (1923) ,『経済学大綱』 (1928) ,『第二貧乏物語』 (1930) ,『資本論入門』 (5巻,1932) など多数。また『河上肇全集』 (全 36冊,1982~86) が刊行された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「河上肇」の解説

河上肇
かわかみはじめ

1879.10.20~1946.1.30

明治~昭和期の経済学者。山口県出身。東大卒。東京帝国大学農科大学講師をへて1908年(明治41)京都帝国大学講師,翌年助教授。ヨーロッパ留学後の15年(大正4)に教授。この間,農政学者として農業立国・保護貿易論を展開。16年「貧乏物語」を新聞に連載し好評を博す。のち人道主義からマルクス主義にかたむき,19年の個人雑誌「社会問題研究」の発刊をへて,昭和初期の「資本論入門」「経済学大綱」などで立場を鮮明にした。28年(昭和3)大学を辞職して実践運動に飛び込み,32年共産党に入党。翌年1月検挙され,37年6月まで獄中生活。出獄後は書斎生活に戻り,「自叙伝」執筆のほか詩歌・書道などにも親しんだ。「河上肇全集」全35巻・別巻1。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河上肇」の解説

河上肇 かわかみ-はじめ

1879-1946 明治-昭和時代前期の経済学者。
明治12年10月20日生まれ。母校東京帝大の講師をへて大正4年京都帝大教授となる。「大阪朝日新聞」に「貧乏物語」を連載。のち雑誌「社会問題研究」を刊行,マルクス主義の研究と紹介につとめた。昭和3年教授を辞職。7年共産党に入党,翌年逮捕される。出獄後は「自叙伝」などを執筆。昭和21年1月30日死去。68歳。山口県出身。著作はほかに「資本論入門」「経済学大綱」など。
【格言など】誤れる常識と闘争しこれを打破して行くことが新興科学の任務である

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旺文社日本史事典 三訂版 「河上肇」の解説

河上肇
かわかみはじめ

1879〜1946
大正・昭和期のマルクス主義経済学者
山口県の生まれ。東大卒。1905年『読売新聞』紙上に「社会主義評論」を連載,のち京都大学に迎えられ教授となる。'19年『社会問題研究』を刊行。しだいにマルクス主義の実践運動に入り三・一五事件('28)で京大を追われ,'29年新労農党結成に参加。「32年テーゼ」を翻訳し,日本共産党に入党したが,'33年検挙,非転向を貫いたが,獄中で引退を声明した。出獄後は自叙伝などの執筆に余生を送った。主著に『貧乏物語』『経済学大綱』など。

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世界大百科事典(旧版)内の河上肇の言及

【改造】より

…B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いたり,プロレタリア文学流行期にはそれに多くの誌面を割くなど,つねに時代の新思潮を敏感にとらえ大正末年には《中央公論》とならぶまでに成長した。本誌の最多執筆者だった山川均のほか河上肇,猪俣津南雄,櫛田民蔵ら多くのマルクス主義者に誌面を開放し,社会主義運動とマルクス主義の普及に多大の貢献をした。いっぽう,文芸欄は文壇の登竜門としての権威をもち,志賀直哉《暗夜行路》,中条(宮本)百合子《伸子》,芥川竜之介《河童》などの名作も生まれた。…

【社会問題研究】より

…1919年1月弘文堂書房から発刊された河上肇(かわかみはじめ)の個人雑誌。月刊。…

【周恩来】より

…没落した官僚の大家族で育ち,少年期には辛酸をなめた。瀋陽で小学校を終え,1913年天津の南開中学に進み,17年日本に留学,河上肇の著作などを通じてマルクス主義に近づいた。五・四運動がおこって天津に帰り,学生運動の指導者の一人として活躍し,逮捕投獄されたりした。…

【貧乏物語】より

河上肇(かわかみはじめ)の代表作の一つ。1916年《大阪朝日新聞》に〈貧乏物語断片〉の題で連載,17年京都の弘文堂書房から出版。…

【マルクス】より

…しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。 昭和に入ると,福本和夫,三木清,河上肇などによるマルクス論が左翼的インテリのあいだで強い影響を及ぼすようになり,28年(昭和3)には世界で最初の改造社版《マルクス・エンゲルス全集》の刊行が開始された(全27巻30冊,補巻1,別巻1。完結1935)。…

【マルクス主義】より

… 明治が大正に転換し,大正デモクラシーの高揚とロシア革命の影響が,〈冬の時代〉の終りを告げると,社会主義とマルクス主義の研究・運動も復活する。人道主義的立場から《貧乏物語》(1917)を書いていた河上肇は,個人雑誌《社会問題研究》を創刊(1919)し,しだいにマルクス主義研究を進めた。また堺や山川均,荒畑寒村らも《社会主義研究》や《新社会》を発刊して,〈我々の旗印とは何ぞや,曰くマルクス主義である〉と宣言(1919)し,労農ロシアのボリシェビズムへと向かった。…

【陸游】より

…日本では山本北山(1752‐1812)刊《放翁先生詩鈔》が版を重ね,天明から幕末にかけて晩年の俳句風抒情詩がよく読まれた。明治以後も読みつがれ,いくつかの注釈書が出ているが,たとえばマルクス経済学者河上肇なども熱心な読者の一人で,大部な評釈書《陸放翁鑑賞》をのこしている。【一海 知義】。…

※「河上肇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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