精選版 日本国語大辞典 「毎日新聞」の意味・読み・例文・類語
まいにち‐しんぶん【毎日新聞】
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日本の代表的な全国紙の一つ。
前身は1882年(明治15)2月1日『大阪日報』(1876年創刊)を買収して創刊された『日本立憲政党新聞』だが、政府の言論弾圧を受けたため、自由党との関係を断ち、1885年9月『大阪日報』に復旧した。1887年、大阪の実業家兼松房治郎(かねまつふさじろう)がこれを譲り受け、1888年11月20日『大阪毎日新聞』と改題、大阪実業界の機関新聞として発行することになり、翌年4月、藤田組支配人の本山彦一(ひこいち)が相談役として経営に関与、発展の基礎を築いた。日清(にっしん)、日露の両戦役では、いち早く従軍記者を派遣して『大阪朝日新聞』と速報を競ったほか、1899年入社した営業主任桐原捨三(きりはらすてぞう)の積極的人気政策で販売部数を拡張、20世紀に入ると『大阪朝日新聞』に拮抗(きっこう)する地位を固めるに至った。この間、1897年9月に原敬(たかし)、1900年(明治33)には小松原英太郎(えいたろう)らが入社、編集総理、ついで社長を務め声価を高めた。とくに原は、初めて海外通信網を設置したほか、別刷りの「京都付録」(地方版の先駆)の発行、漢字制限、文体の改革を提唱するなど積極的諸施策をとり、世評を博した。
1903年社長に就任した本山は、さらに東京進出を企て、1906年12月21日『電報新聞』を買収して『毎日電報』と改題発行したが、1911年3月1日には、東京最古の日刊紙『東京日日新聞』を買収(『毎日電報』を合併)経営することになり、東京進出は完成、全国紙としての地歩を確立するとともに、通信機能が著しく強化された。
[春原昭彦]
大正に入ると『大阪朝日新聞』と販売協定を結び、地方へ進出するとともに、1915年(大正4)10月10日から夕刊を発行した。また、欧米に常駐特派員を派遣、1923年12月15日には、かねてから協力関係にあったアメリカのUP通信社と正式に特約を締結するなど、着々と通信網を充実していった。同1923年9月1日の関東大震災でも『東京日日新聞』は被災を免れ、部数を倍増して同月18日から夕刊を発行、『大阪毎日新聞』も翌1924年の元日部数で100万部を突破した。
[春原昭彦]
昭和に入り、1935年(昭和10)2月に門司(もじ)、11月に名古屋で印刷発行を開始(1942年休止)、12月には、伝統ある『時事新報』を『東京日日新聞』に吸収して発展を続け、1943年1月から東西の題号を『毎日新聞』に統一した。第二次世界大戦中から戦後にかけて、用紙難で一時夕刊を休止したが、1950年代に入ると用紙事情も好転、夕刊を復活(1949年12月)するとともに名古屋での印刷を再開し、専売制復活とともに販路を拡張する。1959年(昭和34)5月から札幌で印刷発行を開始するなど部数を伸ばし、1970年初頭には500万部を突破した。報道面では、第二次世界大戦前からアジア報道に強みをみせていたが、ベトナム戦争中の1965年には「泥と炎のインドシナ」を連載、米軍空爆下のハノイに外信部長大森実がいち早く乗り込むなど目覚ましい報道で注目を集めた。1972年の沖縄返還に際しては、日米の密約を暴露(沖縄密約暴露事件)、1981年には本土への核持ち込み容認問題で、ライシャワー元駐日アメリカ大使の発言を引き出すなど数々のスクープを報じている。しかしその間、石油危機(1973)などもあって経営内容が悪化したため、1977年新会社をつくり、「開かれた新聞」をうたって再出発した。
[春原昭彦]
1980年代後半になって経営も危機を脱し、平成になると全紙面製作をコンピュータ化するとともに、「新聞革命」のスローガンのもと、紙面のワイド化、ビジュアル化など、意欲的な紙面改革、斬新(ざんしん)な企画に取り組んでいる。また、2000年(平成12)秋には、業界に先駆けて「『開かれた新聞』委員会」をつくり、読者の訴えに積極的にこたえる姿勢を示している。
環境問題への取り組みにも熱心で、1996年「科学部」を「科学環境部」に改称、2007年には資源の大切さを訴える「MOTTAINAI」キャンペーンを展開するなど、「環境の毎日」推進事業に取り組む姿勢は注目されている。デジタル・メディア事業にも積極的に進出、1995年には他社に先駆けてウェブサイトを立ち上げ、2010年からはデジタル配信会社を通じ、毎日新聞のニュースを特別編集した『Mainichi iTimes(マイニチアイタイムズ)』を提供、デジタル写真雑誌『photoJ.(フォトジェイドット)』を創刊するなどしている。
編集活動は、キャンペーン、スクープなど活発で、その紙面づくりは高く評価され、新聞協会賞、菊池寛賞、ボーン・上田賞、日本記者クラブ賞など新聞界でもっとも権威ある賞を多く受賞している。海外取材網も完備し、2011年時点で、アジア(バンコク)、中国(北京(ペキン))、北米(ワシントン)、欧州(ロンドン)の4総局、世界各地に20支局を設置、AP(アメリカ)、ロイター(イギリス)、朝鮮通信などと特約を結んでいる。国内でも2010年4月に、共同通信社に再加盟(1952年に朝日、読売両社とともに脱退)、以後有力地方紙とも次々に記事や写真の配信契約を結び、取材組織の合理化とともに地域面の充実を図り、新しい時代の全国紙を目ざしている。発行部数は朝刊約362万部、夕刊約124万部(2010)で、東京と大阪のほか、北九州、名古屋、札幌の各市に発行所をもっている。
[春原昭彦]
『小野秀雄著『大阪毎日新聞社史』(1925・大阪毎日新聞社)』▽『大阪毎日新聞社編『大阪毎日新聞五十年』(1932・大阪毎日新聞社)』▽『『東日七十年史』(1941・東京日日新聞社・大阪毎日新聞社)』▽『山路貞三著『毎日新聞西部本社史』(1948・毎日新聞西部本社)』▽『社史編纂委員会編『毎日新聞七十年』(1952・毎日新聞社)』▽『毎日新聞百年史刊行委員会編『毎日新聞百年史』(1972・毎日新聞社)』▽『川上富蔵編著『毎日新聞販売史 戦前・大阪編』(1979・毎日新聞大阪開発株式会社)』▽『毎日新聞社編・刊『「毎日」の3世紀――新聞が見つめた激流130年』上下・別巻(2002)』
日本の代表的新聞の一つ。《大阪毎日新聞(《大毎》)》と《東京日日新聞(《東日》)》がその前身。《大毎》は1876年2月,西川甫(はじめ)(1831-1904)を社主に《大阪日報》として創刊,82年筆禍対策の〈身代り紙〉として興された《日本立憲政党新聞》に事実上受け継がれた(号数もこれから継承している)。85年《大阪日報》に題号を戻し,いったん休刊の後,88年11月大阪実業界の支援により《大阪毎日新聞》として再発足した。当初は大同団結運動支持の柴四朗(東海散士)主筆の下で政治色が強かったが経営上は振るわず,89年からは本山彦一相談役と渡辺治(1864-93)社長兼主筆の指導の下に穏和な論調の紙面作りと広告収入の増加で発展し,《大阪朝日新聞》と並ぶ阪神地方の有力紙となった。97年から原敬,1900年から小松原英太郎(1852-1919)が社長を務め,とくに原は紙面の平易化,家庭面,海外通信の拡充に努めた。03年,本山が社長に就任,新聞の独立のためには経営の独立が必要だとして〈新聞商品主義〉を掲げて約30年間経営に当たり,《大毎》の発展に貢献した。《大毎》は早くから東京進出を考えており,06年東京の《電報新聞》(1903創刊)を買収して《毎日電報》としたが振るわなかったため,11年3月東京最古の日刊紙であった《東日》を合併経営するにあたって《電報新聞》をこれに吸収し,系列紙としての新しい《東京日日新聞》を発足させた。《大毎》は日露戦争に際して戦況報道で部数を伸ばし,その講和交渉の報道で他紙をリードしたが,さらに明治後期にはライバル紙《大阪朝日新聞》としばしば拡販競争や論戦を繰り広げ,また鉄道マイル数競争(社内社会部記者の鉄道による取材競争)など人目を引く各種のイベントを催し,読者獲得に成功した。
第1次大戦に際しては戦争勃発を《東日》とともに他紙にさきがけて報道,ロシア革命の報道やレーニン会見記でも注目を集めた。シベリア出兵については慎重論を唱えている。大正後期,国内問題では米騒動,門司のセメント工場公害など社会問題をとりあげ,普通選挙運動についても積極的賛成の姿勢をとった。15年10月からは《大阪朝日》と協定のうえ夕刊の発行を開始,朝刊の発行部数では24年に100万台に達した。この《大毎》《東日》と東西《朝日》との間で大正から昭和にかけて全国的に繰り広げられた覇権争いは,両社の成長のみならず,報道体制,機械設備,催物などにわたって日本新聞界の発展に大きく貢献した。32年末の本山社長の死後,城戸元亮(もとすけ)(1881-1966)が代表取締役会長となったが,内紛が生じ城戸ら五十数人が辞職,以後の《大毎》は45年までもっぱら同新聞生え抜きの奥村信太郎(1875-1951)と高石真五郎(1878-1967)によって主宰された。1929年に徳富蘇峰を社賓として迎え,36年12月には《東日》が《時事新報》を合併した。満州事変,国際連盟脱退,日華事変に際しては《大毎》はおおむね日本の行動を支持する立場をとり大戦期に及んだ。《大毎》と《東日》は第2次大戦下の43年1月,新聞統合政策に基づき題号を統一し《毎日新聞》となった(社説は1929年に統一)。
戦後の《毎日》は〈真実敏速な報道と公正な世論の喚起〉(毎日憲章)を期した報道中心の紙面作りを行い,放送界にも進出している。近年《朝日》《読売》両紙の拡販競争に遅れをとった感があり,77年3月,外部資本の導入などの再建計画を発表,同年12月から新会社設立による経営再建が行われた。2004年現在の朝刊発行部数は400万部,資本金41億5000万円。東京,大阪,中部(名古屋市),西部(北九州市)の4本社と北海道支社から成る。社史に《毎日新聞百年史》などがある。
執筆者:佐々木 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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大阪実業界の有力者が自由民権派と対抗するために「大阪日報」を買収し,1888年(明治21)11月20日に「大阪毎日新聞」と改題して創刊した新聞。藤田組支配人本山彦一の経営手腕によって「大阪朝日新聞」を追い,大正初期には両紙の寡占体制が形成された。1911年には「東京日日新聞」を買収し,東京に進出した。18年(大正7)株式会社に改組。関東大震災後は「朝日」と提携して東京系新聞を圧倒し,関東でも2紙の寡占を成立させた。26年(昭和元)には東西あわせて200万部突破を宣伝。43年1月1日に社名を毎日新聞社と改め,東京・大阪の題号も「毎日新聞」に統一した。第2次大戦後は「朝日」「読売」と並ぶ3大紙の一角を占めてきたが,70年以降経営が悪化し,77年債務を旧社に残し,別に設立した新社が発行を引き継いだ。販売部数は約333万部(2014)。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…東京における最初の日刊新聞で,現在の《毎日新聞》東京本社の前身にあたる。1872年(明治5)2月に条野伝平らによって設立された日報社より創刊された。…
※「毎日新聞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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