梅原龍三郎(読み)うめはらりゅうざぶろう

精選版 日本国語大辞典 「梅原龍三郎」の意味・読み・例文・類語

うめはら‐りゅうざぶろう【梅原龍三郎】

洋画家。京都府出身。聖護院洋画研究所浅井忠に学び、渡仏してルノアール師事二科会国画会などに加わり、華麗で躍動感にあふれる作品を発表した。東京芸術大学教授文化勲章受章代表作に「裸婦扇」「北京秋天」など。明治二一~昭和六一年(一八八八‐一九八六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「梅原龍三郎」の意味・わかりやすい解説

梅原龍三郎
うめはらりゅうざぶろう
(1888―1986)

大正・昭和期の油彩画の巨匠。明治21年3月9日、京都市の染物問屋に生まれる。出生時に龍三郎と命名されたが、まもなく良三郎と改名。この名は26歳の1914年(大正3)まで使われた。京都府立二中を退学し、伊藤快彦(よしひこ)の画塾、ついで浅井忠(ちゅう)の聖護院(しょうごいん)洋画研究所(のち関西美術院)に学ぶ。1908年(明治41)渡仏してパリアカデミー・ジュリアンほかに通い、翌年からルノワールの指導を受ける。1913年(大正2)帰国し、白樺社(しらかばしゃ)主催で滞欧作による最初の個展「梅原良三郎油絵展覧会」を東京で開く。翌年二科会の創立に参加したが、1920~1921年再渡仏。1922年には春陽会の創立に参加、のち国画創作協会の洋画部(1928年(昭和3)から国画会となる)を創設した。昭和初めから、肉筆浮世絵、琳派(りんぱ)、南画などの伝統を独自に近代化し、『桜島』『裸婦扇』『薔薇(ばら)』など、豪放華麗な梅原芸術を打ち立てた。このころから油彩に岩絵の具も用い始める。また北京(ペキン)へ6回旅行し、『紫禁城』『姑娘(クーニャン)』ほかを制作する。1935年帝国美術院(現、日本芸術院)会員。1944年帝室技芸員、東京美術学校(東京芸術大学の前身)教授となる。1950年代には富士山浅間山の連作を始める。1952年(昭和27)東京芸術大学教授を辞任、ベネチア・ビエンナーレ展の国際審査員として渡欧、同年帰国して文化勲章を受ける。1957年に前年の『富士山図』が朝日文化賞(現、朝日賞)を受賞。同年、日本芸術院会員を辞任。カンヌほか南フランス、イタリアに制作旅行を繰り返す。花の静物、裸婦などに自由奔放な画境を示したが、昭和61年1月16日、97歳で没。

[小倉忠夫]

『『現代日本美術全集12 梅原龍三郎』(1971・集英社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「梅原龍三郎」の意味・わかりやすい解説

梅原龍三郎
うめはらりゅうざぶろう

[生]1888.3.9. 京都
[没]1986.1.16. 東京
洋画家。京都の染呉服業の家に生れる。 1903年から4年間浅井忠に師事。 08年渡仏してパリのアカデミー・ジュリアンに入学,翌年からルノアールの指導を受けた。 13年帰国して個展を開き注目される。翌年二科会創立に参加し,17年まで同会会員。 22年から3年間春陽会に所属。 26年国画創作協会に参加して洋画部を新設。同会解散後は国画会を結成して指導的役割を果した。 33年から中国,台湾,鹿児島へ何度も旅行して,その地の風物を豊麗な色彩で描き,東洋の伝統を生かした豪快かつ華麗な作品を発表。第2次世界大戦後もたびたび渡欧し,風景画を描いた。その間東京美術学校教授 (1944~52) ,帝室技芸員,帝国美術院会員,帝国芸術院会員となり,52年文化勲章を受章,57年日本芸術院会員を辞した。第2次世界大戦後は 52年ベネチア・ビエンナーレ国際審査員をつとめ,73年にはフランス政府よりコマンドール勲章を受けた。主要作品『黄金の首飾り』 (13,東京国立近代美術館) ,『裸婦扇』 (38,大原美術館) ,『紫禁城』 (40,同) ,『噴煙』 (50~53,東京国立近代美術館) ,『浅間山』 (59,同) ,『カンヌ』 (68,同) 。

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