桑木厳翼(読み)くわきげんよく

精選版 日本国語大辞典 「桑木厳翼」の意味・読み・例文・類語

くわき‐げんよく【桑木厳翼】

哲学者。文博。彧雄(あやお)の兄。東京出身。東京帝国大学卒。京都帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任、黎明会(れいめいかい)に参加。カントを研究し、哲学の啓蒙活動を行ない、文化主義を唱えた。帝国学士院会員。著に「カントと現代の哲学」「哲学概論」など。明治七~昭和二一年(一八七四‐一九四六

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デジタル大辞泉 「桑木厳翼」の意味・読み・例文・類語

くわき‐げんよく〔くはき‐〕【桑木厳翼】

[1874~1946]哲学者。東京の生まれ。京大・東大教授。西洋哲学史、特にカント哲学の紹介尽力。著「哲学概論」「カントと現代の哲学」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桑木厳翼」の意味・わかりやすい解説

桑木厳翼
くわきげんよく
(1874―1946)

哲学者。旧金沢藩士の長男として東京・牛込(うしごめ)に生まれる。1896年(明治29)帝国大学哲学科を卒業、第一高等学校教授となる。『哲学概論』(1900)は日本人の手になる最初の哲学概論書である。1906年(明治39)京都帝国大学教授に転じ、ヨーロッパ留学を経て1914年(大正3)東京帝国大学教授。以後1935年(昭和10)に定年退官するまで、長く同大学哲学科を主宰し、京大の西田幾多郎(にしだきたろう)、東北帝国大学の高橋里美(たかはしさとみ)と並び称された。またその間、社会問題にも深い関心をもち、黎明会(れいめいかい)や唯物論研究会に名を連ねるなど、文化主義の立場から多くの発言を残している。第二次世界大戦後、貴族院議員に選ばれた。カントを玄妙深遠なものと解する当時の学界の傾向のなかで、「物自体」を形而上(けいじじょう)的実体や絶対者ではなく「価値」であると理解するなど、早くからカントの認識論の意味を洞察し、『カントと現代の哲学』(1917)などにおいて本格的な研究を展開した。

[渡辺和靖 2016年8月19日]


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改訂新版 世界大百科事典 「桑木厳翼」の意味・わかりやすい解説

桑木厳翼 (くわきげんよく)
生没年:1874-1946(明治7-昭和21)

哲学者。東京に生まれ,東京帝国大学哲学科を卒業,京大,東大教授を歴任して,日本のアカデミーにおける西洋哲学研究の基礎を確立した。その間,主として新カント学派に学んで,長く教科書的意味をもった《哲学概論》(1900)などの哲学概論,哲学史の著作やカント研究書を発表し,また日本の哲学研究を欧米に紹介するのに努めた。とくに,1918年吉野作造らと〈黎明会〉を結成して提唱した〈文化主義〉は,大正デモクラシー期の思潮に一つの方向を与えるものであった。なお彼は物理学者,科学史家桑木彧雄(あやお)の兄にあたる。
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百科事典マイペディア 「桑木厳翼」の意味・わかりやすい解説

桑木厳翼【くわきげんよく】

哲学者。東京生れ。東大で井上哲次郎ケーベルに学び,一高,京大教授を経て1914年―1935年東大教授。新カント学派哲学の紹介に努め,西田幾多郎と並び日本哲学界の指導的役割を果たした。大正期に文化主義を提唱,啓蒙活動を行った功績は大きい。著書《カントと現代の哲学》《文化主義と社会問題》等。
→関連項目帝国文学

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桑木厳翼」の解説

桑木厳翼 くわき-げんよく

1874-1946 明治-昭和時代前期の哲学者。
明治7年6月25日生まれ。桑木彧雄(あやお)の兄。帝国大学でケーベル,井上哲次郎にまなぶ。一高教授となり,明治33年「哲学概論」を刊行。京都帝大,東京帝大の教授を歴任。大正8年黎明(れいめい)会を結成して文化主義をとなえ,大正デモクラシー運動に参加。新カント派の立場にたち,西洋哲学研究の基礎をきずいた。昭和21年12月15日死去。73歳。東京出身。著作に「カントと現代の哲学」など。
【格言など】人生を解決せんとするものはまず人生を超越する所がなければならぬ(「読書余録」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桑木厳翼」の意味・わかりやすい解説

桑木厳翼
くわきげんよく

[生]1874.6.25. 東京
[没]1946.12.15. 神奈川
哲学者。東京帝国大学哲学科卒業。第一高等学校,東京大学助教授を経て,京都,東京両大学教授。 1935年退官。明治 30年代より『哲学雑誌』により啓蒙的活動を始め,明治末期より大正にかけて,西洋哲学輸入,紹介の中軸となった。特に新カント派の哲学の移入に伴うカント研究の業績が大きい。主著『哲学概論』 (1900) ,『カントと現代の哲学』 (17) ,『倫理学の根本問題』 (36) 。

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世界大百科事典(旧版)内の桑木厳翼の言及

【イデー】より

…感覚されうる個物の原型・範型としての形相,主観的な表象ないし観念の両義のほか,カント以降のドイツ哲学では理性概念として独特の意義づけをこうむる。20世紀初頭,桑木厳翼は理性観念すなわちイデーを〈理念〉と訳した。カントは理性が現象界を超越する傾向は認めるが,理論的認識を感性の直観形式(時間,空間)と悟性概念(カテゴリー)との及びうる現象界に制限し,理性の構想する概念すなわち理念は,〈あたかも〉実在する〈かのように〉全現象界に最高の統一を与えこれを統制する仮説であるとし,旧来の形而上学の主題の神・不死・自由をこのような理念とみなした。…

【観念論】より

…ここに理想の追究ないし理念の実現を目ざす理想主義が近世の観念論の一つの型となり,フィヒテの倫理的観念論を代表とする。日本では左右田喜一郎と桑木厳翼とがカントとリッケルトの観念論を文化主義として継承した。【茅野 良男】
[インドの観念論]
 インド思想の一般的な特徴は,それが必ずなんらかの宗教体験の上に立って展開されているということであり,この点をはずしてそれが観念論か否かを問うのは危険である。…

【プラグマティズム】より


[日本におけるプラグマティズム]
 以上パース,ジェームズ,デューイの思想を通してプラグマティズムを概観してきたが,そのプラグマティズムが最初に日本にはいったのは1888年で,元良(もとら)勇次郎によるデューイの心理学の紹介にはじまっているようである。その後,93年には元良がこんどはジェームズの心理学を紹介し,1900年にはイェール大学の心理学教授G.H.ラッドが来日して,ジェームズの心理学について講演し,その翌年桑木厳翼がジェームズの《信ずる意志》の思想を紹介した。なお,ジェームズの〈直接経験〉〈純粋経験〉の思想は西田幾多郎,田辺元,出隆らに影響を与えている。…

※「桑木厳翼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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