精選版 日本国語大辞典 「松本幸四郎」の意味・読み・例文・類語
まつもと‐こうしろう【松本幸四郎】
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歌舞伎(かぶき)俳優。屋号は代々高麗屋(こうらいや)。
[服部幸雄 2018年8月21日]
(1674―1730)幼名小四郎。下総(しもうさ)国(千葉県)小見川(おみがわ)の生まれと伝える。1716年(享保1)幸四郎と改名。実事(じつごと)、荒事(あらごと)、武道事(ぶどうごと)が得意で、2世市川団十郎と並ぶ名優とたたえられた。
[服部幸雄 2018年8月21日]
4世市川団十郎の前名。
[服部幸雄 2018年8月21日]
5世市川団十郎の前名。
[服部幸雄 2018年8月21日]
(1737―1802)京都生まれ。色子から若衆方(わかしゅがた)、さらに立役(たちやく)に転じた。江戸に下って4世市川団十郎の門弟となり、1772年(安永1)4世幸四郎を襲名。芸熱心な名優で、1794年には極上上吉の最高位に位置づけられた。色立役で和事(わごと)、実事に本領があったが、晩年は実悪(じつあく)も演じた。曽我(そが)十郎、藤屋伊左衛門、帯屋長右衛門、工藤祐経(すけつね)などが当り役だった。
[服部幸雄 2018年8月21日]
(1764―1838)4世の子。立役から実悪に進み、1801年(享和1)前名3世市川高麗蔵(こまぞう)から5世を襲名した。容貌魁偉(ようぼうかいい)で実悪役者にふさわしく、俗に「鼻高幸四郎」とよばれて人気の高かった名優である。写実的な芸風で、4世鶴屋南北(つるやなんぼく)の生世話(きぜわ)の演技に新生面を開き、文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~1830)の江戸劇界の重鎮となって活躍した。仁木弾正(にっきだんじょう)、武智光秀(たけちみつひで)、高師直(こうのもろなお)、松王丸、直助権兵衛(なおすけごんべえ)、立場(たてば)の太平次(たへいじ)などが当り役。
[服部幸雄 2018年8月21日]
(1812―1849)5世の長男。1844年(弘化1)6世を継ぐが、大成をみなかった。
[服部幸雄 2018年8月21日]
(1870―1949)幼年のころ2世藤間勘右衞門(ふじまかんえもん)の養子になり、9世市川団十郎の門に入る。市川金太郎・染五郎・8世高麗蔵を経て、1911年(明治44)7世を襲名。容姿・音調に優れ、時代、世話、所作事のいずれもよくした。師団十郎の芸脈を受け写実芸にも優れた。大正・昭和の劇壇の重鎮で、由良之助(ゆらのすけ)、松王丸、幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)、武智光秀など、古典の座頭(ざがしら)役の立役が勤める役に優れたものが多い。なかでも『勧進帳(かんじんちょう)』の弁慶はもっとも有名で、生涯に1600回余り演じた。11世市川団十郎、初世松本白鸚(はくおう)(8世幸四郎)、2世尾上松緑(おのえしょうろく)は、その子。芸談に『松のみどり』という名著がある。
[服部幸雄 2018年8月21日]
(1910―1982)7世の次男。本名藤間順次郎。初世中村吉右衛門(きちえもん)に師事し、のちにその女婿(じょせい)となる。1949年(昭和24)5世市川染五郎から8世を襲名。吉右衛門譲りの時代物の型物によく、堅実な芸風を確立した。1981年名跡を長男に譲り、初世白鸚を名のる。1975年重要無形文化財、1976年芸術院会員。1981年文化勲章受章。
[服部幸雄 2018年8月21日]
(1942― )8世の長男。本名藤間昭曉。1981年(昭和56)、6世市川染五郎から9世を襲名。染五郎時代から『王様と私』『ラ・マンチャの男』ほかのミュージカルで有名になり、『オイディプス王』『アマデウス』ほかの翻訳劇に出演するなど、幅の広い芸で縦横の活躍をみせる。近年は歌舞伎に意欲をみせている。2005年(平成17)紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章。
[服部幸雄 2018年8月21日]
2018年に2世白鸚を襲名。同時に長男7世市川染五郎(1973― )が10世松本幸四郎を、その長男金太郎(2005― )が8世市川染五郎を襲名した。
[編集部 2018年8月21日]
『市川染五郎著『見果てぬ夢』(1981・コンパニオン出版)』▽『松本幸四郎著『ギャルソンになった王様』(1996・広済堂出版)』▽『松本幸四郎・水落潔著『幸四郎の見果てぬ夢』(1996・毎日新聞社)』
歌舞伎俳優。9世ある。(1)初世(1674-1730・延宝2-享保15) 幼名松本小四郎,下総小見川の生れ。元禄(1688-1704)のはじめ江戸に出て,若衆方,女方,のち立役となる。1716年(享保1)に〈小〉を〈幸〉と改め,2世市川団十郎と並び称された。(2)2世 4世市川団十郎の前名。(3)3世 5世市川団十郎の前名。(4)4世(1737-1802・元文2-享和2) 屋号高麗屋。1744年(延享1)江戸市村座に入り瀬川金吾,54年(宝暦4)瀬川錦次と改名,57年4世団十郎の門下となり市川武十郎,63年市川染五郎,同年さらに市川高麗蔵と改名,72年(安永1)36歳で師の前名をついで幸四郎となる。色立役,所作事で売り出し,曾我十郎,藤屋伊左衛門,幡随院長兵衛,絹川谷蔵など和事,実事に秀で,晩年は実悪もよくした。(5)5世(1764-1838・明和1-天保9) 4世の子。1770年(明和7)7歳で初舞台。72年(安永1)純蔵から高麗蔵と改名。1801年(享和1)11月市村座で幸四郎を襲名した。俗に〈鼻高幸四郎〉と呼ばれ,古今無類,三都随一と賞賛された。初めのうちは父と同じく和事を本領としたが,仁木弾正など実悪にも優れ,1799年(寛政11)には実悪の首位に置かれた。頽廃的風潮の中で,4世鶴屋南北の作品,たとえば《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》の武智光秀をはじめ,《霊験曾我籬(れいげんそがのかみがき)》の藤川水右衛門,《絵本合法衢(えほんがつぽうがつじ)》の立場の太平次,《東海道四谷怪談》の直助権兵衛など,実悪としての残忍さを絶妙に演じた。また,生世話(きぜわ)も得意とし,写実的演技で,新風を吹き入れた。(6)6世(1812-49・文化9-嘉永2) 5世の子。父の当り役をついだが,大成せずに早世。(7)7世(1870-1949・明治3-昭和24) 2世藤間勘右衛門の養子となる。のち9世団十郎の門に入り,市川金太郎,染五郎,高麗蔵を経て,1911年幸四郎を襲名した。17年3世藤間勘右衛門を襲名。堂々たる体軀と風貌,朗々とした声音の持主で,団十郎譲りの《勧進帳》の弁慶はまさに専売特許の感があり,生涯に1600回も勤めた。反面きわめて進歩的で,1905年には日本最初の創作オペラ《露営の夢》に主演し,また11年帝劇開場と同時に,6世尾上梅幸,4世沢村宗十郎らとはせ参じて,女優を加えた数々の芝居を演じた。3男あり,長男を市川家の養子にやり,次男を初世中村吉右衛門,三男を6世尾上菊五郎に預けた。それが,後年の11世市川団十郎,8世松本幸四郎,2世尾上松緑である。(8)8世(1910-82・明治43-昭和57) 本名藤間順次郎。1926年純蔵の名で初舞台。28年から吉右衛門に師事,のち吉右衛門の女婿となる。30年染五郎,49年幸四郎を襲名した。吉右衛門系の時代物を得意とするが,また父親譲りの進取の精神に富み,57年には文学座に客演して《明智光秀》,59年には綱大夫,弥七とともに《日向嶋(ひゆうがじま)》,60年には《オセロ》と意欲的な仕事を重ねた。61年から菊田一夫に招かれ,2人の息子ともども東宝の専属となり,以後11年間東宝劇場,帝劇を根城に山田五十鈴,山本富士子らの女優を加えた一座で活躍,菊田一夫没後歌舞伎の世界に戻った。75年人間国宝,76年芸術院会員,81年名跡を長男に譲り,自分は初世白鸚となった。この年に文化勲章を受章。(9)9世(1942(昭和17)- )8世の長男。1946年初舞台。49年6世市川染五郎を経て,81年10月幸四郎を襲名した。
執筆者:千谷 道雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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