李鴻章(読み)りこうしょう

精選版 日本国語大辞典 「李鴻章」の意味・読み・例文・類語

り‐こうしょう ‥コウシャウ【李鴻章】

中国清末の政治家安徽省合肥出身。太平天国の乱の際、曾国藩の幕下にはいる。一八七〇年直隷総督兼北洋大臣に就任。その後洋務運動中心人物として軍の近代化を図ったが、日清戦争の敗北で失脚。また、芝罘(チーフー)条約、下関条約義和団事件など重要外交案件のすべてにかかわった。(一八二三‐一九〇一

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デジタル大辞泉 「李鴻章」の意味・読み・例文・類語

り‐こうしょう〔‐コウシヤウ〕【李鴻章】

[1823~1901]中国、末の政治家。安徽あんき省合肥の人。あざな少荃しょうせん、号は儀叟。おくりなは文忠。曽国藩のもとで淮軍わいぐんを組織して太平天国の乱を鎮圧。以後40年余にわたって両江総督・直隷総督・北洋大臣・内閣大学士を歴任、日清戦争下関条約)・義和団事件など重要な外交案件にかかわったほか、洋務運動の中心人物として清国の近代化に尽力した。リー=ホンチャン。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李鴻章」の意味・わかりやすい解説

李鴻章
りこうしょう
(1823―1901)

中国、清(しん)末の代表的政治家。安徽(あんき)省合肥(ごうひ)の人。道光27年(1847)進士。字(あざな)は少荃(しょうせん)、諡(おくりな)は文忠。1853年帰郷して団練を組織し、太平軍と戦った。のち曽国藩(そうこくはん)の幕僚として湘軍(しょうぐん)で活動し、その厚い信任を得た。61年に曽の命を受けて安徽で湘軍と同性格の義勇軍淮(わい)軍約6000人を組織し、62年4月、イギリス船で安慶から上海(シャンハイ)に入り、ただちに江蘇巡撫(こうそじゅんぶ)に抜擢(ばってき)された。英・仏軍、常勝軍、清正規軍と共同して、江浙(こうせつ)の太平軍鎮圧に大きな役割を果たした。太平天国滅亡後、代理両江総督、ついで欽差(きんさ)大臣として6万の淮軍を率いて捻軍(ねんぐん)鎮圧にあたり、功により67年湖広総督、70年直隷(ちょくれい)総督兼北洋通商事務大臣に就任した。以後25年間その任にあって外交、軍事、経済の運営にあたった。この間洋務派の首領として、洋式軍事工業、ついで民間工業の創設を進めた。彼が関与して設立されたものに江南製造総局、金陵機器局などの武器製造工場、輸船招商局(汽船会社)、開平炭鉱、漠河金鉱、天津(てんしん)電報局、津楡(しんゆ)鉄道、上海機器織布局などがある。これらは官営、もしくは、民間資本を募集し、官が監督し民間企業家が経営する官督商弁あるいは官商合弁の経営方式を採用した。彼は外国企業からその利を奪い、またこれらの企業を呼び水として民間企業の発展を図ることを意図したが、内外の条件に制約されて、十分これを実現できず、同時代に並行して進められた日本の維新政府による殖産興業政策ほどの成果をあげられなかった。彼はまた関税収入をもって武器、軍艦を購入し、北洋水師学堂を創立して淮軍を強化し、北洋海軍を創立し、一時は日本海軍を凌駕(りょうが)した。しかし、その後の最新技術の導入に後れをとり、日清戦争で陸・海軍とも壊滅的打撃を受けた。外交では国力不足を理由に、ほぼ一貫して譲歩妥協による解決と夷(い)をもって夷を制する政策を主眼としたが、日清戦争の敗戦によって致命傷を受け、下関(しものせき)条約調印後中央政界から一時失脚した。しかしその外交手腕を買われて、96年ロシアに派遣されて露清秘密条約を結び、また全権大臣として、義和団戦争後の辛丑(しんちゅう)条約に調印した。『李文忠公全集』がある。

[小島晋治]

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百科事典マイペディア 「李鴻章」の意味・わかりやすい解説

李鴻章【りこうしょう】

中国,清末の官僚。安徽省の人。1847年の進士。1858年曾国藩の幕僚となり,太平天国の鎮圧に当たり江蘇巡撫となるや,自らも義勇軍の淮(わい)軍を編制して活躍。両江・直隷総督兼北洋大臣の要職につき,淮軍を背景に洋務運動を推進し清朝最大の実力者となった。対外的にも手腕を発揮したが,1895年日清戦争の敗北によって淮軍と北洋海軍は崩壊し彼の実力は後退した。その後は対露外交,義和団事件などの処理に当たった。
→関連項目袁世凱郷勇慶親王奕【きょう】呉汝綸下関条約招商局高田実天津条約日清修好条規捻軍北洋軍閥

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改訂新版 世界大百科事典 「李鴻章」の意味・わかりやすい解説

李鴻章 (りこうしょう)
Lǐ Hóng zhāng
生没年:1823-1901

中国,清末の政治家。字は少荃。安徽省合肥の人。道光27年(1847)の進士。太平天国が興ると,53年(咸豊3)命をうけて帰郷し,軍務に従事した。58年,曾国藩の幕僚となり,62年(同治1)曾国藩の推挙で江蘇巡撫に抜擢され,淮軍(わいぐん)を編成し(郷勇),太平天国軍攻撃下の上海の救援におもむいた。太平天国滅亡後は捻軍反乱の鎮圧にあたり,70年,曾国藩のあとをうけて直隷総督兼北洋大臣に就任,以来25年間その任にあって,清朝の軍事・外交をほとんど一手にとりしきった。それを可能にしたのは,初任地である上海の地の利を生かして淮軍の装備の近代化を進め,これを起点に洋務運動の先端を切ったこと,外国事情に通じ交渉に熟達した有能なブレーンを擁したことであった。ただその外交は戦争回避のための妥協と譲歩に終始し,軟弱性を反対派からたえず指弾されたが,中国の国力不足に責任を転嫁し,洋務運動による国防力強化を正当化した。しかし,その眼目であった北洋海軍が日清戦争で壊滅し,淮軍も敗退して,ついに失脚をよぎなくされた。講和会議の全権として下関条約を結んだあと閑職におかれたが,外交面でもなおその手腕を買われ,96年(光緒22)にはロシア皇帝の戴冠式に派遣されて露清同盟密約を結び,義和団事変の際は事態収拾のため,直隷総督兼北洋大臣に再起用された。1901年全権として辛丑(しんちゆう)条約(義和団議定書)を結んだあと在任のまま病没。なお,後任に袁世凱(えんせいがい)を推挙した。《李文忠公全集》165巻がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李鴻章」の意味・わかりやすい解説

李鴻章
りこうしょう
Li Hong-zhang; Li Hung-chang

[生]道光3(1823).2.15. 安徽,合肥
[没]光緒27(1901).11.7. 北京
中国,清末の政治家。安徽省合肥の人。字は少荃。号は儀叟。諡は文忠。道光27(1847)年の進士。初め翰林院に入り,太平天国軍の南京進出により帰郷,安徽巡撫福済の幕僚となり,咸豊8(1858)年湘軍を率いる曾国藩の幕僚となった。同治1(1862)年,曾の推挙で江蘇巡撫となり,淮軍を編制して上海救援に活躍。同 4年両江総督となり,翌年から同 7年まで欽差大臣として捻軍討滅にあたった。のち湖広総督を経て同 9年に直隷総督となり,以後光緒21(1895)年まで 25年間その職にあった。その間北洋大臣も兼ねた。また外交を一手に引き受け,日清戦争後の下関条約では全権大使として調印している。同 22年使節としてロシアに赴き,同 25年両広総督となり,同 26年直隷総督に再任されたが,翌年病没。洋務運動(→洋務派)を推進する漢人官僚の第一人者として近代的軍隊の創設,海軍の建設,軍事工業の推進,鉱山の開発,鉄道の敷設など各方面に活躍。外交面でも直隷総督就任以降,義和団事変までのほとんどの問題に対処した。主著『李文忠公全書』(165巻)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「李鴻章」の解説

李鴻章(りこうしょう)
Li Hongzhang

1823~1901

清末の政治家。安徽(あんき)省合肥県の人。1847年進士合格。58年曾国藩(そうこくはん)の幕僚となり,62年みずから淮軍(わいぐん)を編成して上海に進出し,太平天国討伐に活躍。65年両江総督,66~68年捻軍(ねんぐん)を平定,以後直隷総督(70~95年,1900~01年),内閣大学士(1868~1901年)として,軍隊の近代化,軍事工業の育成,招商局の設立,鉱山の開発,鉄道の建設など殖産興業に力を注いだ。また天津教案から義和団事件に至るまでの日本,イギリス,フランス,ロシアなどとの間の外交上の難局は,ほとんど彼の手によって処理された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「李鴻章」の解説

李鴻章
りこうしょう
Li Hongzhang

1823.1.5~1901.11.7

中国清朝末期の政治家。字は少荃(しょうせん)。安徽省出身。1847年進士に及第。61年曾国藩(そうこくはん)の幕僚として淮(わい)軍を編成,翌年江蘇巡撫として太平天国を鎮圧。両江総督・湖広総督をへて,70年直隷総督兼北洋通商事務大臣となり,清政府の外交・軍事・経済の全権を掌握。「自強求富」の洋務運動に力を注ぎ,江南製造局・輪船招商局・天津電報局・上海機器織布局などの近代工業を創設。外交では妥協路線を堅持し,壬午(じんご)・甲申(こうしん)事変の際,日本との衝突をさけ,日清戦争の回避にも努めた。戦後全権として下関で講和条約に調印。対露接近を図り,露清密約にも調印。1901年義和団の乱の処理後,急逝した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「李鴻章」の解説

李鴻章 り-こうしょう

1823-1901 清(しん)(中国)の政治家。
道光3年1月5日生まれ。太平天国の乱,捻(ねん)軍の乱の鎮圧にあたり,1870年直隷総督兼北洋大臣となる。軍事,外交,経済の実権をにぎり,その近代化をすすめた。日清戦争後,明治28年(1895)日清講和会議の全権として来日,下関条約をむすんだ。光緒27年9月27日死去。79歳。安徽省出身。字(あざな)は少荃(しょうせん)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「李鴻章」の解説

李鴻章
りこうしょう

1823〜1901
中国,清末期の政治家
淮 (わい) 軍を率いて太平天国の乱を鎮圧。以後,淮軍の軍事力,洋務運動の推進,外交の独占によって清末の最有力政治家となる。日清修好条規締結(1871)以来,日本との外交問題の多くに関係した。天津条約をはじめ日清戦争後の下関条約・露清同盟密約,義和団事件後の北京議定書にもたずさわった。

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世界大百科事典(旧版)内の李鴻章の言及

【雲南問題】より

…いわゆるマーガリー事件である。イギリス公使トマス・ウェードは,この事件を機に中国・イギリス間の懸案を解決せんとし,芝罘(チーフー)で李鴻章と交渉を始め,76年芝罘協定が結ばれた。内容は(1)雲南事件の謝罪および償金支払い,雲南・ビルマ間国境貿易の許可,(2)会審の具体的手続に関する取決め,(3)宜昌,蕪湖,温州,北海の開港,イギリス官吏の重慶駐在,租界における洋貨の釐金(りきん)免除,アヘンに対する保税制度の適用などについて取り決められた。…

【開灤炭田】より

…【大橋 脩作】 開平から灤州にかけて存在することから開灤と命名されたが,現在は唐山市に属する。1878年(光緒4)李鴻章が官督商弁(一種の公社)形式で開平鉱務局を創設したが,これは中国最初の近代的炭鉱であった。しかし1900年義和団の乱の際,イギリス資本に譲渡された。…

【官営工業】より

…なかでも,同治年間(1862‐74)に開始された武器製造を主な目的とする国営工場が著名。太平天国を鎮圧した勢いを背景に,両江総督曾国藩,江蘇巡撫李鴻章,浙江巡撫左宗棠などの漢人官僚が台頭し,みずからの実力を蓄えるために,各地に軍需工場を設立した。1863年,曾国藩は安慶軍械所を設立し,西洋人技師を雇用せずに火器・小型汽船の製造を開始した。…

【郷勇】より

…それとともに呼称も潮勇,楚勇,川勇など徴募地名を冠する例が多くなったが,とくに大きな役割をはたしたのが,湘勇(湘は湖南省の簡称),淮勇(わいゆう)(淮は安徽省北部の別称)である。1853年(咸豊3)曾国藩は地主の子弟を将校とし,農村青年を兵(勇)として湘勇を編成し,61年,李鴻章はこれにならって淮勇を編成した。 いずれも師弟関係や血縁・地縁など私的結合を紐帯として組織されて曾国藩,李鴻章の私兵的性格が濃く,それぞれ湘軍,淮軍と通称された。…

【江南製造局】より

…江南機器製造総局の簡称。1865年(同治4)李鴻章によって設立された中国最初の本格的な官営軍事機械工場。1862年設立の上海洋(ようほう)局と,63年設立の蘇州洋局の一部とを合し,それを上海道台丁日昌が李鴻章の命により購入した旗記鉄廠(アメリカ人ハント商会Thos.Hunt & Co.が上海虹口に所有)に合して設立された。…

【招商局】より

…中国最初の汽船航運会社である輪船招商局の簡称。1874年(同治13)北洋大臣兼直隷総督李鴻章は,イギリス,アメリカの航運会社に対抗するため,民間から資本を募集(招商)し半官半民(官商合辧)の輪船公司招商局を設立した。資本金は当初100万両(テール)で,総局は上海に,分局は天津,牛荘,烟台,漢口,福州,広州,香港,横浜,神戸,ルソン,シンガポール等に置かれ,漕糧の運搬や貿易に従事した。…

【清仏戦争】より

…82年,劉永福の率いる黒旗軍がソンコイ川流域の鉱山を調査していたフランス隊を妨害したとの口実でフランスはハノイを占領し,清もこれに対抗して北ベトナムへ出兵した。この紛争は84年(光緒10)5月,天津において北洋大臣李鴻章と海軍中佐フランソア・エルネスト・フルニエとのあいだで協定(李=フルニエ協定)が調印されて解決したかにみえたが,協定の撤兵に関する条項が不備であったため,同年6月に再び両国は武力衝突した。いわゆる清仏戦争はここに始まるが,国際法上は最後まで宣戦されない戦争であった。…

【曾国藩】より

…これは満州朝廷内部における漢人勢力の台頭にとって画期的なことがらだったが,太平軍に大敗を喫するたびに自殺を考えたほど小心なところのあった彼は,むしろ保身のために湘軍を解散し,軍権を手放した。また,彼は61年,安慶に兵器工場(安慶軍械所)を設立するなど洋務運動の先駆者でもあったが,軍権,洋務とも彼の輩下の李鴻章が主として継承するところとなった。曾国藩はなによりもまず,いわゆる同治中興の功臣として有名であるが,儒学の徒として名教の維持に努め,桐城派の流れをひく文章は一世をふうびして,その弟子郭崇燾(かくすうとう),薛福成(せつふくせい)らとともに湘郷派とも称される。…

【太平天国】より

…56年には,建都以来進行していた諸王間の隠微な権力闘争が,流血の大分裂として爆発し,東王がその部下約2万とともに北王韋昌輝に,ついで北王が天王に殺害され,衆望を担った翼王石達開が天王の圧迫に耐えかねて20万の大軍を率いて天京を離脱する悲劇を演じた(南王馮雲山と西王蕭朝貴は南京占領までに戦死)。これに乗じて曾国藩が儒教と伝統的秩序の擁護をかかげて,湖南の儒者・地主を中核に組織した義勇軍(湘(しよう)軍),ついで李鴻章が安徽で組織した淮(わい)軍が攻勢に転じ,太平軍は60年までに天京上流の従来の地盤を喪失した(図)。
[外国の干渉と敗北]
 第2次アヘン戦争と北京条約(1860)によって,清朝をその対華政策の支柱として再編することに成功したイギリス以下の列強は,初期の中立政策を放棄し,1860年以降,天京以東の江蘇・浙江省に新たな活路を求めて進出してきた太平軍に,上海,寧波などで武力攻撃を加え始めた。…

【日清修好条規】より

…日本と中国清朝との間に締結された最初の修好通商条約。1871年9月13日(明治4年7月29日)日本側全権大蔵卿伊達宗城と清国側全権直隷総督李鴻章との間に調印,73年3月9日批准,94年8月1日,日清開戦により失効した。明治政府は係争中の対朝鮮修交問題を有利に解決するため,朝鮮の宗主国である清国と対等条約を締結することを希望した。…

【幕友】より

…地方官ならふつう財政経済担当の銭穀師爺と法律裁判担当の刑名師爺が必須とされるが,私設秘書なのだから身分と財力に応じて招かれた。幕友は,科挙をあきらめた知識人の一つの処世の道だったが,曾国藩幕下の李鴻章のように将来へのステップの場合もあった。その重要性から,幕友のための心得を説く幕学の発生をみた。…

【メレンドルフ】より

…ハレ大学で法律,東洋諸語を学んだあと1869年に清国へ渡り,各地の海関に勤務,天津・上海のドイツ副領事をつとめた。82年李鴻章の推薦で朝鮮政府の外交顧問となり,主として海関業務を担当したが,ロシアとの接近策をすすめたため李鴻章と対立し,85年に解任された。以後,清国に戻って言語研究に力を入れ,《満語文典》(1892)や《満文書籍解題》などを著し,寧波(ニンポー)で死んだ。…

【洋務運動】より

…洋務の語はそれまで〈夷務〉と称され,清朝と諸外国との関係・交渉の事務いっさいを指していたが,アヘン戦争以降,洋務は,魏源林則徐馮桂芬(ふうけいふん),王韜(おうとう)(1828‐97)によって唱えられるようになり,中学を体(本体)とし西洋を用(作用)とする中体西用論を旨とした欧米の文物の摂取,受容をその内容とする。そして曾国藩,李鴻章,左宗棠(さそうとう)などの有力督撫(総督・巡撫)によって推進された洋務運動は,初期には太平天国対策や辺境防備など軍事力の増強に力が入れられ,やがて教育や実業などの各方面にも及んでいった。 洋務の推進は,まず清朝政府が1861年(咸豊11),北京に総理衙門(そうりがもん)を設立したことに始まる。…

【露清同盟密約】より

…1896年6月3日,モスクワにおいて清国全権李鴻章とロシア外相ロバノフ・ロストフスキー,蔵相ウィッテとの間で調印された条約。〈李・ロバノフ条約〉ともいい,中国では〈中俄密約〉と呼ぶ。…

※「李鴻章」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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