教皇(読み)きょうおう(英語表記)Pontifex Maximus ラテン語

精選版 日本国語大辞典 「教皇」の意味・読み・例文・類語

きょう‐おう ケウワウ【教皇】

〘名〙 ローマ‐カトリック教会の首長。法王。きょうこう。
米欧回覧実記(1877)〈久米邦武〉四「四十六歳にて教大長になり、歳を越て『カルシナル』 教王選挙宮 に陞り、一千八百四十六年に教王に選挙されたり」

きょう‐こう ケウクヮウ【教皇】

〘名〙 ローマ‐カトリック教会の最高位の聖職。ローマ教皇。法王。〔現代術語辞典(1931)〕

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デジタル大辞泉 「教皇」の意味・読み・例文・類語

きょう‐こう〔ケウクワウ〕【教皇】

ローマ‐カトリック教会の最高位の聖職。地上におけるキリストの代理、使徒ペテロの後継者であり、全教会に対する首位権をもつ。法王。ローマ教皇。きょうおう。→バチカン
[類語]司祭牧師神父司教大司教助祭祭司法王

きょう‐おう〔ケウワウ〕【教皇】

きょうこう(教皇)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「教皇」の意味・わかりやすい解説

教皇
きょうこう
Pontifex Maximus ラテン語
Papa ラテン語
Supreme Pontiff 英語
Pope 英語

ローマ・カトリック教会の首長、バチカン市国元首。かつて報道などで「法王」ともよばれていたが、2019年(令和1)11月20日、日本政府は、教皇フランシスコ訪日にあわせて「教皇」という呼称を使用すると発表した。教皇の帯びる諸種の称号のうち、「ローマ司教」「イエス・キリストの代理者」「使徒の頭(かしら)の後継者」「全カトリック教会の首長」の四つが、教皇権の起源と本質を物語る。すなわち、教会の創立者キリストは「使徒の頭」ペトロ(ペテロ、ペトルス)を自分の代理者(「キリストの代理者」)とすることにより、自らが世を去ったのち教会を導く権能を与え、この権能は、ペトロのローマでの殉教ののち、その「後継者」である「ローマ司教」に代々受け継がれた。したがって、ローマ司教である教皇は、教会の歴史を通じて「全カトリック教会の首長」の座にあったとされる。教皇はまた「バチカン市国元首」としては一国の元首の地位にあり、いずれの国家にも属さない立場をとることにより、精神的独立性を確保している。

 教皇の首位権の起源の根拠としては、イエスがシモン・ペトロに「あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。……わたしはあなたに天国の鍵(かぎ)を与えよう……」と約束した箇所(「マタイによる福音(ふくいん)書」16章18~19)、およびキリストがペトロに「わたしの羊を牧せよ」と3回繰り返し命じた箇所(「ヨハネによる福音書」21章16~17)があげられる。

 教皇の選出は、前教皇没後15日以内に招集される教皇選出会議(コンクラーベconclave)において行われる。選挙権は80歳未満の枢機卿(すうききょう)のみが有し、3分の2以上の多数票を得た人物が就任を受諾すると、ただちに教皇の権限をもつことになる。教皇職は終身であるが、自発的に退くこともできる。2013年にベネディクト16世が高齢との理由で辞任している。

[梅津尚志・光延一郎 2023年8月18日]

歴史

教皇の首位権は実際には教会史の流れのなかで徐々に全教会的に承認されるようになったのであるが、すでに3世紀にはローマ司教は「ペトロの座」Cathedra Petriと称されており、4世紀以降はローマ司教のみが「パパ」Papaとよばれるようになった。キリスト教ローマ帝国の時代には、教皇権が皇帝権の強い干渉を受ける面もみられたが、異端を排除しつつ教義を確立するという課題は、概して教皇側の主導権のもとに解決され、それを通じてローマの首位権が広く承認されるようになった。

 中世になると、教皇権はビザンティン(東ローマ)側と疎遠になる一方で、新生フランク王権と結び付くことによって地歩を固め、宗教的、文化的、政治的指導者としての立場にたつようになった。とくに11~12世紀の「グレゴリウス改革」を通して、教皇は世俗権からの独立性を獲得するとともに、教会の中央統治機構としての教皇庁を整備し、全教会にわたる指導権を高めた。また、当時の封建的諸勢力の併存・対立の状況のなかで、場合によっては政治世界にも大きな影響力を及ぼした。そこに、インノケンティウス3世らに代表される中世教皇権の隆盛期が現出した。

 中世末期に至ると、フランス王権を代表とする世俗権力の強大化によって教皇権は相対的に弱まり、さらにシスマ(教会大分裂、1378~1417)の結果、教皇首位権への信頼は揺らぎ、教皇よりも公会議全体の決定を上位に置く公会議首位説(公会議至上主義)が強まった。「教会の頭と肢体の改革」が叫ばれながらも、改革の実をあげられなかった教皇権は、ルターに始まる宗教改革に対しても当初は有効な措置を講ずることはできなかった。教皇の主導下に開かれたトリエント公会議トレント公会議、1545~1563)による態勢の立て直し、また、とくに教皇に忠誠を誓うイエズス会の活躍などにより、カトリック側は失地回復に努めたが、ヨーロッパ・キリスト教世界を教皇のもとに再統合することはできなかった。

 ヨーロッパの近代化が進むにしたがって、近代的政治体制、諸思想に直面して教会は守勢にたたされ、従来教皇が保持していた諸特権も否定されていった。19世紀後半の第一バチカン公会議(1869~1870)は、時代思潮に対してカトリック教会の立場を明確にし、また教皇の不可謬(ふかびゅう)性を宣言して、近代世界に対する積極的態度を示した。しかし、公会議中に、国家統一の完成を目ざすイタリアによりローマが占領され、教皇領のすべてを奪われた。教皇は伝統的に保持してきた世俗権力を失い、イタリア政府と対立した(いわゆる「ローマ問題」)。

[梅津尚志 2017年8月21日]

現代世界と教皇

世俗権力を失ったなかで、教皇はカトリック教会の首長として、宗教的な指導者の立場から、世界が直面する社会正義や平和問題について広く世界に訴えるようになった。レオ13世は1891年の回勅『レールム・ノバールム』で労働者の人間性尊重を強く訴え、また、帝国主義時代の激しい国際対立のなかで世界平和のための国際連盟の必要性を世界に先駆けて説いた。しかし、教皇の願いもむなしく、世界は二度の世界大戦に突入した。その間、1929年にはピウス11世がイタリア政府とラテラノ条約ラテラン協定)を締結して「ローマ問題」を解決し、その結果としてバチカン市国が成立した。教皇はバチカン市国という一国の元首となり、カトリック教会の首長としての自由と独立を確保することになった。

 20世紀の後半、教皇権は大きな転機を迎えた。ヨハネ23世(ヨハネス23世)は第二バチカン公会議(1962~1965)を招集して、「現代化」(アジョルナメント)による教会の自己革新に努める一方、回勅『マーテル・エト・マジストラ』において富の不均衡の克服を訴え、また回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』においては、力の均衡によってではなく、対話を通しての相互信頼によって国際平和を実現すべきことを説いた。パウロ6世(パウルス6世)の国際連合での平和の演説(1965)も、その路線を継ぐものであった。1978年に教皇座についたヨハネ・パウロ2世(ヨハネス・パウルス2世)はさらに精力的に世界各地を歴訪、1981年(昭和56)2月には教皇として史上初めて日本を訪れ、広島で平和アピールを発するなど、全世界に平和と正義の実現を呼びかけた。とくにポーランド出身の教皇が、社会主義体制の母国を1979年に訪問して信教の自由や冷戦の克服を訴え、さらに1980年に成立したポーランド自主管理労組「連帯」への支持を表明したことは、その後の社会主義陣営の動揺と冷戦構造の崩壊の契機となった。1989年にはポーランドの「連帯」が政権を獲得し、ベルリンの壁が崩壊し、一連の東欧革命が起こったが、同年、ペレストロイカ(改革)を掲げるゴルバチョフはソ連共産党書記長として初めてバチカンを訪問して教皇と会談した。その2年後にソ連は崩壊した。教皇は1998年1月にはキューバを訪問して国家評議会議長カストロと会談し、「聖年」にあたる2000年3月には諸宗教・諸民族間の「ゆるしと和解」を旨とする聖地巡礼を行った。2001年5月にはキリスト教会が東西に分裂(1054)して以来、初めてギリシアを訪問した。

[梅津尚志 2017年8月21日]

 ヨハネ・パウロ2世は、26年を超える在位期間中に世界各国を104回にわたり精力的に歴訪し「空飛ぶ教皇」とよばれた。またヨハネ・パウロ2世は、全世界の4200人近くの司教のうち3500人以上を任命した。教皇就任時にバチカンと国交を結んでいた国・地域は90か国だったが、1989~1991年に東欧諸国と相次いで外交関係を開設または再開し、1994年にはイスラエルとも歴史的な外交関係樹立を達成するなど、172か国にまで伸ばした。26年間で列福(福者に認めること)した福者(聖人に次ぐ地位)は1338名、列聖した聖人は482名に上る。14の回勅、15の使徒的勧告、11の使徒憲章、45の使徒的書簡、28の自発教令、数百に及ぶメッセージと手紙を発表したが、回勅『新しい課題 教会と社会の百年をふりかえって』(1991)、回勅『いのちの福音』(1995)、回勅『キリスト者の一致』(1995)など、歴史的に重要な文書を数多く残している。またヨハネ・パウロ2世は1992年すでに、天文学者ガリレオ・ガリレイの異端裁判の判決(1632)を「教会の過ち」と認め、ガリレオに謝罪していたが、21世紀という新しい世紀への変わり目にあたり、新たな千年紀(ミレニアム)を「新しい衣で迎えたい」という決意から、カトリック教会の過去の所業を謝罪した。とくに2000年3月12日に行われた特別ミサでは、キリスト教会の分裂、改宗の強制、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義などのカトリック教会の過去の過ちを認め、神に赦(ゆる)しを請うた。

 ヨハネ・パウロ2世は、2005年4月2日に逝去した。その後、2011年にベネディクト16世により福者に列福され、2014年にはフランシスコにより、福者ヨハネ23世とともに列聖された。

[光延一郎 2023年8月18日]

ベネディクト16世

ヨハネ・パウロ2世の逝去に伴い実施されたコンクラーベにより、2005年4月19日にヨーゼフ・ラッツィンガーが新教皇に選ばれ、第265代教皇ベネディクト16世が誕生した。新教皇は、1927年4月16日、南ドイツ、オーストリアに近いマルクトル・アム・インで生まれ、1951年に司祭に叙階され、新進気鋭の神学教授として、ボン、ミュンスターチュービンゲン、レーゲンスブルク大学で活躍した。第二バチカン公会議(1962~1965)にも、若くして顧問神学者として参加した。1977年にパウロ6世によりミュンヘン・フライジング大司教、そして枢機卿に任命され、さらにヨハネ・パウロ2世により教皇庁教理省長官、聖書委員会・国際神学委員会委員長に任命された。

 ベネディクト16世は、深い神学的見識のもとに、世俗化に反対する姿勢を貫こうとした。ベネディクトという教皇名を選んだことにも、とくに教会のヨーロッパ的信仰の伝統を呼び覚ましたいという願いが込められていたといわれる。カトリック教会と芸術の関係を深め、トリエント・ミサ(第二バチカン公会議以前に行われていたラテン語によるミサの様式)を認めるなど、伝統回帰の志向が濃厚であったといわれる。

 ベネディクト16世は、教皇庁教理省長官だった時代から、カトリック的伝統に対する現代世界からの挑戦への対処に追われていた。とくに生命問題、セクシュアリティ、同性愛については、伝統的なカトリックの見解を支持した。また、聖職者による性的虐待対策には厳しい姿勢を貫いた。

 ベネディクト16世は、世界を飛び回る前任者よりも訪問国数は少なかった(計25回、25か国・地域)が、アフリカ大陸へは2度訪問した。そしてアフリカ人をバチカンの役職に任命し、アフリカ諸国とローマの結び付きを強めた。

 ヨハネ・パウロ2世は四半世紀以上にわたり教会が外に向かう活動に奉仕したが、ベネディクト16世は、教会が何を信じ、何を教えているのか、内側に目を向けるための奉仕に尽力したといわれる。

 しかしながらベネディクト16世は、2006年にレーゲンスブルク大学で行った講演中に、イスラム教の預言者ムハンマドが「悪と非人間的なもの」しかもたらさなかったとする14世紀のビザンティン皇帝のことばを引用したことから、メディアやイスラム教徒から批判を受けた。またカトリック教会だけを正統キリスト教と表現した教理聖省の文書の公表を承認したとしてプロテスタントと正教会など、他のキリスト教宗派からの批判も招いた。

 2013年2月、高齢を理由に突然に辞意を表明。通常終身で務められていた教皇職を自ら離れ、世界を驚かせた。その後は、名誉教皇の称号のもとにバチカン内に居住し、2022年12月31日逝去した。

[光延一郎 2023年8月18日]

フランシスコ

ベネディクト16世が2013年2月28日に辞任したため、実施されたコンクラーべにおいて、アルゼンチン人でイエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が選ばれ、第266代教皇フランシスコが誕生した。

 フランシスコは、就任式では「弱者と環境を守ることが、死と破壊に勝利する方法である」「もっとも貧しく弱き者を抱擁する」と述べ、就任後間もない聖木曜日に行う「洗足式」も、ブエノス・アイレス大司教在任中に病院や刑務所で執り行っていたのと同様にローマの少年院で行い、「貧しさ」の福音的意味を強調する。教皇としての装飾品や住居・車も質素なものに変えている。

 フランシスコは、2023年4月までに41回の海外司牧訪問を行っているが、訪問先は戦争・紛争や宗教対立、台風などの自然災害の起こった場所など、世界が抱える焦眉の問題の渦中に真っ直ぐに飛び込んで行く姿勢を示している。2014年には中東諸国、ヨルダン、パレスチナ自治区、イスラエルを歴訪し、コンスタンティノープル総主教とも会談している。2014年に訪問した韓国では、同年4月に起こったセウォル号沈没事故の遺族とも面会した。2019年には、イスラム教発祥の地であるアラビア半島のアラブ首長国連邦を訪問した。2019年の来日に際しても長崎と広島の平和公園を訪れ、戦争のない世界と核兵器廃止を訴えた。2022年には、カナダを訪問し、カトリック教会が運営していた寄宿学校がカナダ政府の先住民同化政策に協力し、先住民の子どもたちを虐待したことを謝罪した。前教皇が伝統と教義に回帰したのに対して、フランシスコは教会を民衆に親しまれる慈しみの場に変えたといわれる。

 着座2周年を迎えた2015年3月13日に、フランシスコは「いつくしみの特別聖年」の開催を発表した。同年に公布された環境問題に関する回勅『ラウダート・シ』においても、人間は「人間・創造・神」の三項関係のかかわりのうちで「和解」を得て、成長していくべき者だとされ、「いつくしみと和解」において世界を慈しみと愛の場にしていくことがフランシスコのビジョンの根幹であるといわれる。

 現代のカトリック教会を揺るがす最大の問題は、聖職者による児童への性的虐待である。これに関しては、前任のベネディクト16世が事実を認め、公に謝罪したことを継承し、フランシスコも断固たる対応をとろうとしている。しかしながら被害者団体や国連の子どもの権利委員会などは、カトリック教会は被害者の保護より教会の名誉と加害者の保護を優先しているとして、より厳正な対応を求めている。

 また、バチカンと中国政府との間で長年もめていた司教の任命問題(中国は政府が承認する司教のみを公認だとしている)についても2018年に暫定合意に達したと発表された。フランシスコは合意の一環として、中国政府によって任命された司教7人を承認した。しかしながら、中国政府から公認されていない非合法の「地下教会」の信徒には中国政府からの弾圧が続いており、今後の教皇の対応が注目されている。

 2020年以来の新型コロナウイルス感染症の流行と2022年ロシアのウクライナ侵攻についても、フランシスコは敏感に反応している。世界の人々に、コロナ禍の今こそ、これまでの自己中心的な価値観を見直し、兄弟姉妹的な分かち合いの世界を生み出そうとのメッセージを発し続けた。ロシアのウクライナ侵攻についても、フランシスコはロシア正教会のキリル1世Kirill Ⅰ(1946― )とオンラインで協議し、また捕虜交換の手配に水面下で協力した。「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」を発表し、全世界のカトリック信徒たちに祈りを呼びかけている。

[光延一郎 2023年8月18日]

『W・ドルメッソン著、橋口倫介訳『教皇』(1959・ドン・ボスコ社)』『K・v・アーレティン著、沢田昭夫訳『カトリシズム 教皇と近代世界』(1973・平凡社)』『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(1980・教育社)』『上智学院新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』全6冊(1996~2010・研究社)』『ウゴー・コロンボ・サッコ著、保岡孝顕訳『教皇ヨハネ・パウロ2世と世界政治』(1998・聖母の騎士社)』『竹下節子著『ローマ法王』(1998・筑摩書房)』『F・G・マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代史』(1999・創元社)』『マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』(2000・三交社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「教皇」の意味・わかりやすい解説

教皇 (きょうこう)
Pope
Supreme Pontiff

〈ローマ教皇〉〈ローマ法王〉ともいい,単に〈法王〉と記すこともある。ローマ司教,イエス・キリストの代理者,使徒ペテロの後継者,全カトリック教会の最高司祭,西欧総大司教,イタリア首座大司教,ローマ管区首都大司教,バチカン市国元首。パパPapaという親称は,本来ギリシア語のパパスpapas(〈父〉の意)に由来し,東方世界において修道院長,主教,総主教に対して使われていた。ローマでは初めてローマ司教リベリウスLiberius(在位352-366,以下同)の墓碑に記され,レオ1世Leo Ⅰ(440-461)あての東方教会からの手紙にはしばしば現れる。西方教会では5世紀中葉以来ローマ司教のみが〈パパ〉すなわち〈信仰上の父〉〈教皇〉と呼ばれるようになった。この親称はグレゴリウス7世Gregorius Ⅶ(1073-85)によって普遍化されるにいたった。グレゴリウス1世(590-604)は〈神のしもべらのしもべ(セルウス・セルウォルム・デイServus servorum Dei)〉とみずからを称したが,それこそ教皇職の真の姿を表している。西欧中世においてローマ司教は〈大司祭(ポンティフェクス・マクシムスPontifex maximus)〉〈キリストの代理者(ウィカリウス・クリスティVicarius Christi)〉〈最高司祭(ポンティフェクス・スンムスPontifex summus)〉と呼ばれている。それは全教会の最高の責任と使命の職を担うローマ司教の自己意識や使徒ペテロの後継者に対する全キリスト教徒の敬愛心,また聖・俗界の対立の中で形成された教皇職の霊的権能の宣言を表している。

4世紀初頭コンスタンティヌス大帝以来,ローマ帝国の政治的中心はローマからコンスタンティノープルに移った。かくてゲルマン民族移動時代において,ローマ司教は教皇としてローマ・イタリア民衆の霊的中心となった。その牧者的姿はダマスス1世Damasus Ⅰ(366-384),インノケンティウス1世Innocentius Ⅰ(401-417),ケレスティヌス1世Coelestinus Ⅰ(422-432),レオ1世に見られる。教皇職の西欧中世での発展はグレゴリウス1世によって基礎づけられた。彼はローマ・イタリア民衆の心の柱となり,かつアングロ・サクソンのキリスト教化を展開した。中世初期ゲルマン諸民族はカトリック信仰において教皇の霊的権能の下に集まり,部分的にスラブ民族もローマ教会に入った。ローマ教皇権とフランク国王権の協力はグレゴリウス2世(715-731)とザカリアスZacharias(741-752)に始まり,その連帯同盟はステファヌス2世Stephanus Ⅱ(752-757)において強化された。カロリング朝のピピンは教皇に教皇領を寄進し,その子カールは800年レオ3世から皇帝戴冠を受けてローマ教会化の諸政策を推進した。カロリング朝末期の衰退において特に教皇職の威信はニコラウス1世Nicolaus Ⅰ(858-867)によって高められた。

教会改革の幕が開かれ,ドイツ人諸教皇が11世紀前半〈ペテロの座〉につき,教皇職の新時代を築いた後,グレゴリウス7世(1073-85)は〈教会の自由〉すなわち〈いっさいの世俗権力からの教皇職と教会の自由と独立〉を宣言した。そのためローマ教皇とドイツ皇帝との対立が激化していった(叙任権闘争)。聖と俗との戦いから,インノケンティウス3世(1198-1216)による全西欧キリスト世界の霊的支配に至って中世の教皇職は絶頂に達したが,ボニファティウス8世Bonifatius Ⅷ(1294-1303)の挫折後,フランス人諸教皇はフランス国王権の下に教皇職の霊的地位を失い,教皇の〈アビニョン捕囚〉が起こった。続いて全西欧キリスト教世界の教会大分裂(シスマ)が起こり,真の教皇はローマの教皇かアビニョンの教皇か,同時代人も教会史家も簡単に答えられないほど教会は混乱してしまった。かかる教会の危機の中で〈公会議至上主義〉が現れた。この危機を乗り越えて,ニコラウス5世(1447-55)以来,ルネサンス人文主義と教皇職との結合が始まった。ルネサンス諸教皇は芸術・文化の保護・創造に心酔したが,彼らは切迫する教会改革の諸問題に献身しなかった。ルネサンスの栄華を楽しむレオ10世(1513-21)の在位中,西欧キリスト教世界は宗教改革による信仰分裂の状況を迎え,教皇職の地位は沈んでしまった。

苦悩と希望の中でパウルス3世Paulus Ⅲ(1534-49)は新時代を直視してトリエント公会議を招集した。公会議後の諸教皇には人間的欠点が見られるとしても,教会の最高牧者にふさわしくない教皇は一人もいない。ピウス5世Pius Ⅴ(1566-72),グレゴリウス13世(1572-85),シクストゥス5世Sixtus Ⅴ(1585-90)はカトリック刷新に献身し,パウルス5世(1605-21),グレゴリウス15世(1621-23)はこれを続行した。ウェストファリア条約締結からフランス革命にかけての時代に西欧の世俗化が進展し,教皇職の地位はカトリック諸国においても衰えた。クレメンス13世Clemens XIII(1758-69)とクレメンス14世(1769-74)の時代,さらにはフランス革命から二つの世界大戦の起こった現代まで教皇職は十字架の道を歩み続けてきている。ナポレオン1世がピウス7世(1800-23)に与えた受難を耐えた彼の運命は教皇職に崇高な霊的威信を添えることになった。19世紀ロマン主義に支えられてカトリック復興が躍進し,教皇職は高められたが,教会内の精神・思想的諸潮流が対立をひき起こした。国家主義や自由主義の潮流は反教皇主義を強め,カトリック知識人も教皇職に背を向けた。1864年のピウス9世(1846-78)の《謬説表(シラブスSyllabus)》は近代文化に対する世界観的挑戦であった。レオ13世(1878-1903)はカトリック教会と近代世界との親しい関係を開き,ピウス10世(1903-14)は教会内の信仰再生に努めたが,ベネディクトゥス15世Benedictus ⅩⅤ(1914-22)とピウス11世(1922-39)は戦争と革命による世界不安に直面し,ピウス12世(1939-58)は第2次世界大戦の全人類的受難を背負わなければならなかった。〈教会は諸民族に出会わなければならない〉と述べたヨハネス23世Johannes ⅩⅩⅢ(1958-63)の牧者的精神はパウルス6世(1963-78),ヨハネス・パウルス1世Johannes Paulus Ⅰ(1978),さらにヨハネス・パウルス2世(1978-2005),ベネディクトゥス16世Benedictus ⅩⅥ(2005- )に受け継がれている。
教皇権 →教皇選挙 →キリスト教
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百科事典マイペディア 「教皇」の意味・わかりやすい解説

教皇【きょうこう】

ローマ・カトリック教会の首長。〈ローマ教皇〉〈ローマ法王〉〈法王〉ともいい,英語ではPope,Supreme Pontiff。地上における〈キリストの代理者〉,〈ペテロの後継者〉とされ,首位権,全教会に対する最高の裁治権をもつ。バチカン市国元首。現教皇はフランシスコ1世で,ベネディクトゥス(ベネディクト)16世(即位2005年)が2013年2月,716年ぶりとなる生前退位を選んだことにともない選出された。新教皇は,枢機卿団による選挙会議(コンクラーベ)で選ばれる。→ローマ・カトリック教会
→関連項目キリスト教司教宗教改革ペテロロズミーニ・セルバーティ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「教皇」の意味・わかりやすい解説

教皇
きょうこう
Papa; pope

ローマ法王ともいう。ラテン語 Papaの称号はカトリック教会首長としてのローマ司教 (教皇) 以外の司教らにも適用されていたが,1073年以後教皇専用となった。使徒ペテロの後継者としてキリスト自身の定めた地上におけるキリストの代理者,可見的教会の首長であり,教導,祭祀,司牧の最高権威者 (→教皇の首位権 ) 。首位権に基づいて教皇が信仰と道徳の問題で教義決定をする際には無謬である (→教皇不謬性 ) といわれる。しかし,東方正教会はローマ教皇に全キリスト教を代表する地位を認めるが,他教会に対する首位権,不謬性を認めていない。プロテスタント諸教会も教皇に関するカトリック教会の主張を否定している。それにもかかわらず教皇のキリスト教全体に対する影響は決して小さくない。カトリック教会の長として教皇は国家との間に政教条約を結ぶ権利をもち,1929年のイタリアとのラテラノ条約でバチカン市国の元首となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「教皇」の解説

教皇
きょうこう
Page (ラテン)
Pope (イギリス)

ローマ−カトリック教会の首長,ヴァチカン市国元首
キリスト教が広まるにつれて教会もしだいに形を整え,ローマの行政組織にならって教会管区制度が採用され,5つの総大司教が設けられた。なかでもローマの司教は,イエスの復活を説いてカトリックの基礎を築いた使徒ペテロの後継者とみなされ,4世紀ごろから宗教的権威を高めて,特に教皇と呼ばれた。8世紀中ごろカロリング朝を創立したピピンより教皇領の寄進を受け,世俗的君主の観を呈し,教皇権は伸張,13世紀には全盛期に達して,教皇の威令は諸国王をしのいだ。近代初期における主権国家の形成やプロテスタンティズムの成立とともに,その世俗的権威は著しく弱められ,1870年教皇領はイタリア王国に吸収された。1929年のラテラン条約でヴァチカン市国が成立し,教皇はその元首として現在に至っている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「教皇」の解説

教皇(きょうこう)

ローマ教皇

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世界大百科事典(旧版)内の教皇の言及

【教皇権】より

…使徒ペテロの後継者・ローマ司教としての教皇がもつ,ローマ・カトリック教会内の最高司牧権。カトリックの教理によれば,ペテロがキリストから,使徒団の中で特別の使命と権限を受けたことは,3テキスト(《マタイによる福音書》16:13~19,《ルカによる福音書》22:31~32,《ヨハネによる福音書》21:15~17)の総合的理解から証明される。…

【主教】より

…ローマ帝国の首都および属州の主都の主教は,他の主教にも管轄を及ぼすことからメトロポリテスmētropolitēs(府主教,首都大司教)と呼ばれた。さらに一国またはそれに準ずる地域の教会の最高責任者としてパトリアルケスpatriarchēs(総主教,ローマ教会は教皇の名称を用いた)が設けられた。しかし,これらは主教としては同等の資格である。…

【バチカン[市国]】より

…正式名称=バチカン市国Stato della Città del Vaticano面積=0.44km2人口(1994)=1000人日本との時差=-8時間主要言語=イタリア語,ラテン語通貨=リラLira(イタリアと共通)ローマ市のテベレ川右岸にあるローマ教皇を元首とする世界最小の国家。1929年2月のラテラノ協定に基づき,カトリック教会の首長たるローマ教皇が国際法上の主権と領土的基盤をもつことを認められて成立した。…

【ポンティフェクス・マクシムス】より

…宗教的手続の不備を理由に民会決議(立法,選挙)の無効を宣し,政治的影響力も有した。帝政期にはアウグストゥス以下,元首が終身在任したが,4世紀後半,グラティアヌスが慣行を捨て,5世紀からローマ教皇がポンティフェクスを称した。【鈴木 一州】。…

※「教皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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