播磨国(読み)ハリマノクニ

デジタル大辞泉 「播磨国」の意味・読み・例文・類語

はりま‐の‐くに【播磨国】

播磨

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日本歴史地名大系 「播磨国」の解説

播磨国
はりまのくに

現兵庫県の南西部を占め、東は摂津国、北東は丹波国、北は但馬国、北西は美作国、西は備前国に接した。南は瀬戸内海を挟んで淡路国に臨む。古代は山陽道の一国で、「和名抄」東急本国郡部に「波里万」の訓がある。

古代

〔播磨の表記と語義〕

「古事記」孝霊天皇段に「針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て吉備国を言向け和す」とあり、地名ハリマに「針間」の字をあてていることは、大和政権からみて吉備に対する前線地点であったことを示唆する。ちなみに「氷河」とは加古川をさしている。同書ではハリマの国名はすべて「針間」と記し(七例)、「日本書紀」はすべて「播磨」と記している(二〇例)。「針間」の表記が古く、「日本書紀」はのちに好字を選んで播磨と記したのであろう。播磨の地名の由来は、「播磨国風土記」にこの地域の開発の伝承が多く記されているように、まだ開墾すべき余地の多い墾間(はりま)の意と解する説、また「幡磨」と書かれることが多く、「播」「幡」ともに「ハ」と読むことから「ハマ」によるとの説、その他、萩・はりが生えていたこと、針にちなむ説、船出に待つ雨の晴れ間、張弓のような浜、潮が張ること、稲穂が張ることなど諸説あるが、開墾説が有力といえよう。

〔古墳と古代播磨〕

平安時代初期に成立した「国造本紀」には、播磨には明石・針間鴨・針間の三国造があったとしている。古墳の分布と河川などの水系から考えると、明石は兵庫県最大の前方後円墳である五色塚ごしきづか古墳(神戸市垂水区)の存在する明石川流域に違いなく、この地域は海上交通と関係の深い海直が勢力をもち、のちに明石国造へと発展したと思われる。二番目は加古川中流域の賀茂かも郡を中心とする地域であり、この地域には玉丘たまおか古墳(加西市)小野王塚おのおうづか古墳(小野市)が存在するが、この地域を支配した豪族としては山直が有力であり、のちに針間鴨国造に継承する。三番目はいち川および揖保いぼ川下流域に広がる平野部であり、市川水系には壇場山だんじようざん古墳・宮山みややま古墳(姫路市)などがあり、揖保川の中流には吉島よしま古墳(新宮町)、下流域には輿塚こしづか古墳(御津町)がある。この地域には佐伯直が勢力を張り、大和政権の力を背景として播磨国造に任命され、のちには播磨鴨国造をしのぐほどの勢力となった。そのほかに同川中流域には「播磨国風土記」の説話などから、伊和大神を奉斎する伊和君の一族が早くから勢力をもっていたことが知られるが、その表徴として伊和中山いわなかやま一号墳(一宮町)がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「播磨国」の意味・わかりやすい解説

播磨国 (はりまのくに)

旧国名。播州。現在の兵庫県西南部。

山陽道に属する大国(《延喜式》)で,その東端に位置した。明石,賀古,印南(いなみ),飾磨(しかま),揖保(いいぼ),赤穂,佐用,宍粟(しさわ),神崎,多可,賀茂,美囊(みなき)の12郡よりなる。国司四等官のうち大国にのみ置かれる大目(だいさかん)が712年(和銅5)に播磨国にいるので(《続日本紀》),8世紀初めより大国であったことがわかる。国府は《和名抄》によれば飾磨郡にあり,所在地はいまの姫路市で,姫路城の東または南東部と推定される。国名は《古事記》《旧事本紀(くじほんぎ)》等に〈針間〉と記され,播磨の表記が一般化するのは710年ころ以後である。郡名も飾磨がもとは〈志加麻〉,宍粟が〈宍禾〉などと表記されていた(藤原宮出土木簡,《播磨国風土記》)。

 《旧事本紀》は律令制にもとづく播磨国の成立以前,明石国造,針間鴨国造,針間国造の3国造がいたとする。播磨東部,加古川流域,市川,揖保川流域をそれぞれ勢力範囲としたのであろう。大和朝廷は縮見(しじみ),牛鹿,飾磨,越部などの屯倉(みやけ)や,日下部,矢田部,私(きさい)部,湯坐(ゆえ)部,山部,海(あま)部などの部民を置いて,勢力の浸透をはかった。朝鮮からの渡来人でこの地に居住したものも多い。西部の揖保・赤穂両郡地方には秦氏が多く,東漢(やまとのあや)氏系の漢人や忍海漢人(おしぬみのあやひと)は播磨各地に居住した。韓鍛冶(からかぬち)氏など鍛冶の技術にすぐれたものもあった。《播磨国風土記》には,新羅王子天日槍(あめのひぼこ)がこの国に渡来して伊和大神または葦原志許乎命と土地を争った話を伝える。また《日本書紀》《古事記》の伝承では,履中天皇の孫の億計(おけ),弘計(おけ)の両皇子が播磨の縮見屯倉にかくれ住み,清寧天皇の没後朝廷に迎えられ顕宗(弘計),仁賢(億計)両天皇となったという。播磨が古代史上重要な地位を占めることを示す物語である。律令制成立以後,大嘗祭において悠紀(ゆき),主基(すき)の国にしばしば選ばれているのも,同様に考えることができる。

 産業として重要なのは,海浜地方での製塩と山間地方での製鉄である。製塩では明石郡垂水や赤穂郡で8世紀中ごろに従来の藻塩製塩より進んだ塩浜製塩が始まった。製鉄は《播磨国風土記》その他の史料によって,佐用,宍粟,多可,美囊の諸郡で行われていたことが知られる。また木工寮の鍛冶戸16戸,兵庫寮の雑工戸4戸が播磨国に置かれたと《延喜式》にみえる。そのほか絹織物,製紙,窯業も盛んであった。瀬戸内海に面して多くの良港があり海運が発達した。914年(延喜14)に三善清行の奉った《意見十二箇条》には魚住(うおずみ),韓泊(姫路市的形か),檉生(むろう)(室津)の港がみえるが,明石や加古の港も早くから知られている。陸上では平野部を東西に走る山陽道が官の大道として整備され,明石,賀古,草上,佐突(さつち),大市,布勢,高田,野磨の駅が置かれた。平安時代には律令制が崩壊して,民衆からの租税の徴収が困難になるが,播磨国では10世紀の初め,百姓の大半が六衛府の舎人(とねり)となって,調庸・正税の負担を拒否したという。

 荘園は8世紀中ごろから発生し,東大寺領の垂水荘,石塩生荘など,多くの大寺が播磨に荘園をもった。平安時代では藤原氏の所領の有年荘,美福門院領の矢野荘,東大寺領の大部(おおべ)荘などが著名である。
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播磨は1184年(元暦1)源義経が三草山(みくさやま)の戦で平資盛を敗走させてから源氏の支配下に入り,源頼朝は梶原景時を下して播磨その他を守護させた。文治(1185-90)ころいまの姫路付近に留守所があり,小目代が国務をとっていた。播磨は当時後白河院の知行国であったから,関東の武士が国務をないがしろにすると,院から頼朝に詰問している。なお国内の平家没官領(へいけもつかんりよう)には関東御家人が地頭として配置されるが,美福門院領矢野荘例名(れいみよう)地頭に相模の海老名能季(えびなよしすえ)が任命されたことなどその例である。戦後の播磨で活躍したのは俊乗房重源(ちようげん)で,東大寺領大部荘を管理し荘内に浄土寺をひらいたほか,96年(建久7)魚住泊の修築を上申して許可されている。93年幕府の奏請によって播磨は東寺の造営料国とされ,文覚に与えられたというから,彼が目代に一時就任したのであろう。

 頼朝の死後,梶原景時が失脚して播磨守護を解任され,99年(正治1)下野の小山朝政がこれに替わった。小山氏の守護は建治(1275-78)ころまでつづいたが,そのあと北条氏得宗(とくそう)(惣領家)の職となり,北条時業を経て六波羅探題北方兼任となった。景時討伐に功のあったのは駿河の水軍の武士たちで,景時が播磨でもっていた水軍基地の一つ神護寺領福井荘地頭職(海上警護の任をもつ)を吉香(吉河)小次郎の遺子がもらっている。承久の乱は後鳥羽院が威信をかけた討幕の挙兵であったが,その軍資金は,乱の前年の造大内裏役の臨時課税と播磨国衙領をはじめとする皇室領の収入によった。播磨の皇室領として八条女院領の石作(いしづくり)荘,大国荘,栗栖(くるす)荘,荒田社,大山郷,大塩荘があり,また長講堂領として菅生(すごう)荘,松井荘,最勝光院領として桑原荘,上下揖保荘などがあるから,播磨の果たした経済的役割は大きい。結局これらの皇室領はいったん幕府に没収されたが,のち八条女院領などは後高倉院に献上された。平頼盛の孫保教は承久の乱で京方に参加したため,在田(ありた)荘,道山荘などの所領を没収された。北条義時は1222年(貞応1)在田荘の年貢3分の1を京都に送るよう命じているので,在田荘は幕府領としてその収入を,六波羅府のための費用にあてたのであろう。

 播磨国でも郷や荘の地頭の収入が各地でさまざまなため,これをできるだけ有利にするべく領家と地頭の争いがたえなかった。たとえば福井荘でも,幕府が再三その裁定をくりかえしている。矢野荘では,99年(正安1)例名の領家と地頭の間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われて,東方地頭領と西方領家領に分かれた。播磨は後白河院いらい皇室の知行国であったが,承久の乱後一時近衛家の知行があり,1233年(天福1)から後堀河院の知行国となり,のち後嵯峨院,後深草院,伏見院,後伏見院へと伝領される。知行の対象の国衙領は,49年(建長1)ころ留守所つまり目代を長官として庁事2名,在庁官人10名前後よりなる上級役人によって支配された。そして在庁官人の役職として〈両庁直〉〈両田所〉〈検非違所〉などが出てくる。このうち庁直職は軍事警察を任とし,播磨守護が空席のときは守護代とともに国中の検察や海上警護以下の任務を任されていた。これは守護が小山氏から北条得宗の手に移って(1279以前)からのことかもしれない。81年(弘安4)幕府は播磨守護に北条時業(のち兼時)を置いたが,その当時守護所は加古川にあった。これはモンゴル襲来に対する沿岸警備の必要からであろう。

播磨は諸条件に恵まれたため,農業をはじめとする諸産業の発達や,それにともなう商業・交通の発達が早くから認められる。農林業でいえば13世紀の国内の山林荒野の開発はめざましく,1276年(建治2)播磨淡河(あわかわ)荘と摂津山田荘の境界争いは,相互の開発拡大が国境争いにまで到達したものといえよう。手工業でも,杉原紙は近衛家領椙原荘が中心であり,また1191年の長講堂領目録には松井荘の特産として鍋や鉄輪がみえるのも,製鉄や鋳物業の発達を物語る。それにともない交易市場や物資集散港が発達する。市では《明月記》にみえる〈志賀麻市〉つまり国府の外港飾磨津の市が知られ,佐用郷の市庭(いちば)も鎌倉時代から出てくる。港では大部荘外港の魚住泊が古く,法然の衆生結縁で有名な高砂浦や室津も古い。室津は天然の良港で年貢輸送に利用され,室町時代には唐船の寄港もみられる。室津と魚住泊の中間にある福泊は律僧行円房顕尊が修造をはじめ,これを支援した北条氏被官の安東蓮聖は1302年(乾元1)数百貫の銭貨を投入して築堤工事を完成した。その必要が痛感されたためであろう。

 とうぜん貨幣流通もさかんとなり,1299年(正安1)ころの大部荘では荘民が年貢を銭貨で支払う要望をもっていたし,1300年の九条家領久留美(くるみ)荘では税の一部を銭納している。12年(正和1)矢野荘の那波浦,佐方浦でも年貢の米,麦,大豆をすべて銭納している。生産流通の有力な担い手のなかから,神社の保護をたのむ神人(じにん)などが登場するが,藤原定家の兄成家の所領志染(しじみ)荘では1233年ころ荘民30人ばかりが日吉社神人として活躍している。また大山寺の神人となった者の中には九州まで廻船するものがあった。こうして,百姓や侍のうちに富裕で力を蓄えるものが多くなった。《峯相記》は文永(1264-75)ころ播磨に美麗な念仏堂が造立されたと伝えるが,安志(あんじ),浦上,河内,鵤(いかるが),飾万津などいずれも海陸交通の要所であり,その檀越の経済力の成因を想像することができる。

 これと並行して播磨では悪党の活躍が正安・乾元(1299-1303)ころから目だってくる。1319年(元応1)六波羅は悪党取締りのため飯尾為頼らを派遣して,守護代とともに明石と投石の両所を警備させた。それでも正中・嘉暦(1324-29)ころ再び悪党の活動がはげしくなり,〈天下ノ耳目ヲ驚ス〉ものであったと《峯相記》は伝えている。たとえば大部荘では1294年(永仁2)前雑掌繁昌(しげまさ)ら数百人の悪党が乱入し,年貢米や財貨を略奪した。福井荘では1309年(延慶2)以後,預所湯浅宗武が紀伊から多数の悪行人をひきつれて乱暴を働いた。大部荘では22年(元亨2)安志卿房(あんじのけいのぼう)らの悪党が刈田狼藉(かりたろうぜき)を働いている。矢野荘では14年(正和3)公文寺田法念が別名を襲い,翌年にも刃傷殺害や米銭略奪を働いているが,その悪党のうちに例名雑掌や別名前給主が含まれていた。悪党は富裕な侍や有力百姓の活動だから,その中に地頭や荘官を含むことも多く,六波羅や守護所の力では及ばぬこととなってくる。こうして悪党活躍のまま南北朝の内乱を迎える。

摂関家の九条家領佐用荘に本拠をもつ赤松則村は悪党勢力の結集に成功し,33年(元弘3)護良親王の反幕挙兵に応じ,後醍醐に供奉して入京した。だがその結果播磨を得たのは新田義貞で,不満をもった則村はつづく足利尊氏の反乱に参加し36年(延元1・建武3)播磨守護職を得た。しかし南北朝期の国内は安定せず,守護大名赤松氏の基礎が固まるのは,幼時の足利義満を養育する機会をもった赤松則祐(そくゆう)からである。

 産業・交通の発達は室町時代に入ってからも著しい。赤松則村が三方(みかた)荘に徴した内裏造営用の播磨の材木や,杉原紙は早くから有名だが,とくに15世紀に西播の千種鉄,野里鍋,杉原紙,播磨昆若(こんにやく),播磨鯛など各種の特産品が知られるようになる。市も飾磨津のほか矢野荘那波市や内陸部に多数の市が立ち,為替の初見も58年(正平13・延文3)の矢野荘でみられる。その主体となる郷村自治の発達もみられ,69年(正平24・応安2)矢野荘の名主百姓の十三日講などがその早い例で,〈当荘百姓の法例〉という慣習法の主張が出てくる。77年(天授3・永和3)には矢野例名の代官祐尊排斥を〈惣荘一揆〉と自称している。同荘では93年(明徳4)にも代官明済排斥事件をおこしており,これは守護勢力の排除や年貢銭納を要求したものであった。この傾向は国内他領も同じで,1428年(正長1)は百姓・侍の対立が激化し徳政一揆がおこり,播磨は〈土民ラ,侍ヲ国中ニ在ラシムベカラザル所〉といわれた。

 41年(嘉吉1)在京中の守護赤松満祐が将軍義教を殺害する嘉吉の乱をおこし,その討伐に功のあった山名持豊が播磨守護となった。54年(享徳3)大部荘や赤穂郡で徳政一揆がおこる。応仁・文明の乱中も80年(文明12)に国内で大きな徳政一揆があり,また赤松政則の失地回復争いがあり,山名政豊の勢力を播磨から排除したのは88年(長享2)である。つぎに赤松義村と被官浦上村宗の争いがおこり,政情混乱のまま戦国時代に突入する。1575年(天正3)織田信長にあうため上洛した播磨の領主たちは,赤松広秀,小寺政職(まさのり),別所長治浦上宗景らであった。国内の安定は80年の羽柴(豊臣)秀吉の播磨検地からである。
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1577年羽柴秀吉は中国毛利氏経略のため信長の命によって播磨に出兵し,小寺(黒田)孝高に迎えられてその居城姫路城に入った。織田と毛利の間にあって播磨の諸勢力の帰趨はなお定まらなかったが,78年毛利に通じて信長に反旗をひるがえした三木城の別所長治が籠城2年にして80年正月自刃して開城し,次いでこの年赤松広秀の竜野城,三木通秋の英賀(あが)城,宇野政頼の長水山城が落ちて,播磨平定はここに完了した。秀吉は黒田孝高のすすめで姫路城を本拠と定め,毛利氏攻略を目ざした。しかし本能寺の変(1582)がおきたため,秀吉は姫路を去って大坂城に移った。秀吉の全国平定後の文禄期(1592-96)には姫路に木下家定ら一族大名が置かれ,ほかに加古川に糟谷武則,淡河(おうご)に有馬則頼ら少数の大名が配されて,あとは秀吉の蔵入地となっている。全国にわたった太閤検地は,播磨では95年に行われた。ただ,赤穂,佐用の2郡のみは前年に備前宇喜多秀家領として宇喜多検地をうけていたので,95年にはあらためて太閤検地はうけなかったとみられる。国高は52万石となった。

 関ヶ原の戦(1600)のあと徳川家康の女婿池田輝政が播磨一国52万石をうけて姫路城に入った。彼は翌年(慶長6)播磨国中の太閤検地帳を回収し,机上計算によって2割の高増しを行い,それによってさっそく年貢増徴を果たした。そしてそのあと,この高増しした村高を追認させる作業として,いわゆる二割打出し検地を行い国高を62.9万石(内高)とした。1603年には次男忠継に備前28万石,10年には三男忠雄に淡路6万石が与えられたから,池田氏は父子合わせて実に約100万石を領有する大大名となったわけである。一方,池田氏は01年から8ヵ年の歳月をかけて,秀吉が築いた城に代わる今日の姫路城を築いた。5層の大天守,三つの小天守からなる連立式天守閣をもつこの城は,西日本ににらみをきかす“西国将軍”輝政にふさわしい城であった。この築城とともに,三木明石高砂竜野,平福,赤穂には支城をおいて領国を固めた。13年輝政が死に利隆には42万石が引き継がれ,宍粟,佐用,赤穂3郡10万石は督姫(家康次女,輝政夫人)化粧料の名目で,忠継の所領に加えられた。しかし15年(元和1)忠継が死ぬと,遺領の3郡は弟3人に与えられ,ここに山崎,平福,赤穂の池田3支藩が成立している。

 さらに利隆死後の17年,嫡子光政が幼少のため池田氏は鳥取に移された。そのあとへ,姫路には譜代大名本多忠政15万石,嫡子忠刻(ただとき)(姫路城部屋住)10万石が入り,竜野に忠刻弟政朝5万石,明石に小笠原忠真10万石の2譜代大名が入部した。さらに林田に建部政長,鵤(のち新宮)に池田重利各1万石の外様小藩も入封し,ここに播磨は8藩によって分割支配される段階に入った。なおその後36年(寛永13)に一柳小野藩1万石,97年(元禄10)には津山藩改易にともなう分家森氏の乃井野(三日月)藩1.5万石,1716年(享保1)には豊前中津藩の改易にともなう小笠原安志藩1万石が成立し,42年(寛保2)には美作より転封した丹羽氏の三草藩が成立している。これより先,1617年大坂の西の守りとして摂津尼崎の築城,つづいて18年明石築城が命じられており,さらに同年姫路城の修築,西の丸の築営がなされた。こうして大坂の西方は,姫路の西まで一帯に譜代大名の所領と城で固められ,西日本の外様勢力に対する形となった。

2割を打ち出した池田氏の新村高は,池田氏移封後も後継大名に受け継がれ,その村高で年貢徴収がなされたが,不当に高いものであったため,一般に寛永ころ1割程度を減額する修正がなされた。1647年(正保4)には国高は1570ヵ村54.2万石,新田高1.2万石となった。それが1702年(元禄15)には1800ヵ村56.8万石となるが,この正保~元禄の間の石高増加で注目される点として印南野(いなみの)の開発がある。明石・加古両郡にまたがる広大なこの台地は,近世初頭に村は一つもなかったが,正保以後新田開発が進み,その西につづく印南郡と合わせると,ここだけで7900余石の新田が成立しているのである。他方,年貢収取が頭打ちした享保・元文ころから諸藩はいずこも財政窮乏におちいり,年貢の増徴,たびたびの御用金賦課を行いはじめた。このため困窮した領民の蜂起がしばしばみられるようになる。1739年(元文4)佐用郡平福の旗本松平氏知行所の一揆,49年(寛延2)姫路藩の全藩惣百姓一揆,87年(天明7)の林田藩領の打ちこわしなどがそのおもなものである。

 播磨の産業としてはまず17世紀の塩業の展開があげられる。1600-04年の間に加古郡高砂・荒井両村に塩田が開発され,つづいて印南郡曾根,大塩,的形から飾東郡木場村にかけて塩田が造られた。古式入浜塩田であったが,やがて寛永ごろ荒井村あたりで入浜塩田が創始された。この技術は,この地の浜人によって浅野氏入封(1645)当初の赤穂に移され,同地の東浜塩田において完成をみた。入浜塩田の技法は17世紀の間に,赤穂から安芸竹原,備後松永,備前児島,讃岐丸亀,坂出,阿波斎田などに広がった。また17世紀には早く綿作の展開がみられた。《農業全書》(1697刊)には畿内とともに播磨,備後での綿作の展開がしるされ,1740年大坂入荷の白毛綿の主産地にも播磨が名をみせている。こうして18世紀には加古・印南郡を中心に木綿の生産が進み,姫路木綿は86年(天明6)には70万反,19世紀前期には200万反にのぼり,江戸市場で姫玉,玉川晒などの名で好評を博した。そのほか地域産業では竜野の醬油,三木の金物が,18世紀には中央市場の京都,大坂につながるまでに展開した。ところで内陸部における領主的商品,農民的商品の輸送のために河川舟運は早くから開かれていた。加古川では1594年滝野から河口高砂までの開削がなされて舟運が開かれ,さらに1604年上流の丹波本郷から滝野までが開かれて播磨と丹波が舟運で結ばれた。これによって高砂地方の塩も日本海側へと運ばれるようになった。千種川では中世以来佐用郡上月(こうづき),久崎から河口の中村(赤穂)までの高瀬舟の運航がみられ,揖保川では山崎から河口網干(あぼし)までの運航が1621年に始まっている。

 木綿,塩などの商品生産が展開するにつれて,それを対象とする諸藩の統制,藩専売制が始まる。早く浅野氏赤穂藩は1680年(延宝8)藩札を発行し,領民にはその専一通用を強制して,塩販売によって領外から入る正貨はすべて藩庫に吸収した。つづく森氏赤穂藩もこの方法を踏襲したが,1809年(文化6)にはいよいよ塩を蔵物(くらもの)として大坂蔵屋敷に送る大坂専売を開始した。姫路藩も木綿をはじめとする諸国産を対象として同年専売制を始めた。竜野藩は29年(文政12),明石藩は38年(天保9)に木綿の専売制を始めている。上野館林藩も30年飛地領の三木の金物について専売制を強行したが,これはすぐに中止となった。貢租米や専売国産の大坂,江戸への積出し港として飾磨津,高砂,網干が繁栄し,瀬戸内海交通海運の港として室津が栄えた。播磨の農民には摂津のような有利な生産条件はなく,塩民には領主-塩問屋の規制が強く加わったから,播磨の地主制は,生産そのものよりは米その他の取引や金融活動によって土地を集積するタイプの地主か,あるいは塩問屋が塩田を集積するタイプの塩田地主の形で展開した。天保の不作にさいして蜂起した33年の加古川筋百姓一揆では,米の買占めを行った在村商人や地主が中貧農層の襲撃対象となり,世直し一揆的性格が現れた。

 幕末の動乱の中で,播磨の諸藩は67年(慶応3)末,旧幕府から離れて朝廷に恭順を誓ったが,ひとり姫路藩酒井氏は大老,老中として幕閣の中枢にあったため,なお旧幕府方で行動した。このため翌68年(明治1)正月,朝敵として岡山藩,播磨諸藩兵の追討をうけた。ここにようやく姫路藩は恭順し,姫路城に4,5発の砲撃をうけて平静に帰した。播磨の近世は姫路城にはじまり姫路城で終わった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「播磨国」の意味・わかりやすい解説

播磨国
はりまのくに

現在の兵庫県の南部を占める旧国名。畿内(きない)の一国。播州(ばんしゅう)。東は摂津(せっつ)、北は丹波(たんば)・但馬(たじま)、西は因幡(いなば)・美作(みまさか)・備前(びぜん)、南は淡路の各国に境する。地域は北に中国山地、南に傾斜して瀬戸内海の一部の播磨灘(なだ)に臨む。川は中国山地から発し、東から明石(あかし)川、加古(かこ)川、市川、夢前(ゆめさき)川、揖保(いぼ)川、千種(ちぐさ)川などがあり、下流地域に播州平野が広がる。瀬戸内の寡雨地帯、気候温暖、地味肥沃(ひよく)で、京阪地帯に近接し、南部は水運の便に恵まれて、日本の先進地域となった。行政区画は、『延喜式(えんぎしき)』(927)に宍粟(しさは)、佐用(さよ)、赤穂(あかほ)、揖保(いひほ)、餝磨(しかま)、神崎(かむさき)、多可(たか)、賀茂(かも)、印南(いなみ)、加古、美嚢(みなき)、明石の12郡が存在していた。中世から近世にかけて、このうち、揖保郡は揖東(いっとう)・揖西(いっさい)の2郡、餝磨(飾磨)は飾東(しきとう)・飾西(しきさい)の2郡、神崎郡は神東(じんとう)・神西(じんさい)の2郡、賀茂郡は加東(かとう)・加西(かさい)の両郡に二分されて、16郡となった。現在では、相生(あいおい)、赤穂(あこう)、龍野(たつの)、姫路(ひめじ)、西脇(にしわき)、加西、小野、加古川、高砂(たかさご)、三木(みき)、明石の11市が市制を敷き、瀬戸内側に分布している。

 この地域は第二次世界大戦前、明石市西八木(にしやぎ)海岸で、更新世(洪積世)の化石人骨とされる「明石原人」が発見されたものの、いまだ学界一般の認めるところとなっていない。しかしながら播磨南部には無土器時代の遺跡がかなり分布しており、まとまって発見されている。これは、食糧資源の豊富と、石器原材の供給地が近くにあったこと、恵まれた風土・環境であったことを示す。縄文・弥生(やよい)時代に入ると、当地域にはその遺物・遺跡が広範かつまとまった形で分布していて、ことに南部低地に密集している。古墳時代に入っては、その分布から播磨の南東端に拠(よ)った勢力、加古川中流域の勢力、加古川下流域の勢力、市川・揖保川下流の勢力とがあったように思われる。大化改新に伴い国府は姫路市城東町に置かれた。6世紀の中ごろ公伝された仏教は聖徳太子の保護で広まったが、加古川・揖保川下流域に法隆寺の寺領が設けられている。国分寺および同尼寺は姫路市御国野町国分寺に設置されていた。こうして古代以来、姫路は播磨の政治や文化の中心地として中央との密接な関係を結び、班田収授の実施や開発も進められた。山陽道や海路の要衝にあたり、室津(むろつ)、魚住(うおずみ)などが瀬戸内航路の要津(ようしん)として栄えた。8世紀初めの地誌『播磨国風土記(ふどき)』は、この時代の歴史・地理を示し、民間伝承を多く伝えている。聖徳太子創建の斑鳩寺(いかるがでら)をはじめ、平安時代に入ると、書写山(しょしゃざん)円教寺(姫路市)、法華山(ほっけさん)一乗寺(いちじょうじ)(加西市)、御岳山(みたけさん)清水寺(きよみずでら)(加東郡社(やしろ)町)などの名刹(めいさつ)が建ち、『延喜式』神名帳には一宮(いちのみや)の伊和神社(宍粟(しそう)市)以下52の式内社が載っている。

 平安時代から鎌倉時代にかけて院や摂関家・社寺の荘園(しょうえん)が多くでき、渡(わたり)領、近衛(このえ)・九条家領、東大寺・東寺・法隆寺領などが広大な地域を占めた。播磨国の守護には梶原景時(かじわらかげとき)、小山朝政(おやまともまさ)などの有力御家人(ごけにん)が任じられたが、元弘(げんこう)の変(1331)に際し赤穂郡の赤松則村(のりむら)が反幕軍として挙兵し、播磨は赤松氏の分国となった。赤松氏は四職(ししき)家の一つとして室町時代になって勢力を張ったが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)で滅んだ。このあと山名氏が一時支配したが、戦国時代になって赤松氏のほか三木(みき)の別所氏、三石(みついし)の浦上氏らの勢力が互いに覇を競った。その後、これらの勢力は豊臣(とよとみ)秀吉らによって一掃され、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、播磨国には池田輝政(てるまさ)が封ぜられた。以後、江戸時代には天領、諸大名領、旗本領とが錯綜(さくそう)して設定され、支配が行われている。代表的な近世大名は、姫路城の酒井氏(15万石)、明石城の松平氏(8万石)、龍野城の脇坂(わきざか)氏(8万石)、赤穂城の森氏(2万石)で、ほかに三日月(みかづき)、山崎、林田、小野、三草(みくさ)、安志(あんし)、福本、加古川、三木、小塩(おしお)、新宮(しんぐう)などの11小藩があった。1871年(明治4)廃藩置県によってこれらの藩は姫路県、ついで飾磨県から1876年(明治9)に兵庫県に編入された(ただし福本藩はさきに鳥取藩に合併されていた)。

 産物としては、古くから播州米が知られ灘(なだ)の酒米にも用いられた。赤穂塩も、17世紀後半、浅野氏の保護奨励によって発展した。そのほか、赤穂海苔(のり)、龍野のしょうゆ、明石のタイ、揖保の手延べそうめんなどの農水産物、杉原(すぎはら)紙(多可(たか)町)、播州そろばん(小野市)、三木の刃物、播州釣り針(社町)、播州織(西脇市ほか)などの工芸品も伝統的な産物である。

[小林 茂]

『平野庸脩撰『播磨鑑』(1762成、1909・播磨史談会/復刻版・1969・歴史図書社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「播磨国」の意味・わかりやすい解説

播磨国
はりまのくに

現在の兵庫県南部。別称,播州。山陽道の一国。大国。『旧事本紀』によれば,古くは針間 (はりま) ,針間鴨,明石の3国造があったという。古くから文明が開け,旧石器時代の遺跡もあり,縄文,弥生遺跡も広く分布している。大化改新後は,開墾作業が大規模に進められ,班田収授制の実施,律令に基づく諸施設の設置,山陽道と宿駅の整備などが活発に行われた。和銅6 (713) 年の詔により『播磨国風土記』が編纂されている。国府は姫路市城東町。国分寺は姫路市御国野町国分寺。『延喜式』には明石,賀古,印南などの 12郡,『和名抄』には郷 99,田2万 1414町を載せる。鎌倉時代には梶原景時,小山朝政ら幕府の有力な御家人が守護となった。後期には北条氏の家督が守護となり,さらに六波羅探題兼補となった。南北朝~室町時代には赤松氏の守護領国となる。嘉吉の乱後,一時山名氏が守護となったが,応仁の乱が勃発すると赤松政則が再び回復。その後も戦乱は続き,天正5 (1577) 年に豊臣秀吉によって平定され,秀吉は姫路に城を築いた。関ヶ原の戦い後に徳川家康はここに池田輝政を封じた。慶長 18 (1613) 年輝政病没後,播磨国はその子利隆,忠継に分けられたが,彼らの移封後,江戸時代を通じて小藩に分割され幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,播磨全域は姫路県となり,次いで飾磨県に改められたが,1876年兵庫県に合併された。

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百科事典マイペディア 「播磨国」の意味・わかりやすい解説

播磨国【はりまのくに】

旧国名。播州とも。山陽道の一国。現在の兵庫県の南西部。畿内に隣接するため,古くから開け,神話・伝説に富む。《延喜式》に大国,12郡。国府は現在の姫路市。中世は荘園が多く,室町時代に赤松氏が守護。近世初期は池田氏,次いで本多・榊原・酒井氏の姫路,松平氏の明石,脇坂氏の竜野などの藩が置かれた。→赤穂藩姫路藩
→関連項目鵤荘大部荘近畿地方兵庫[県]矢野荘

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藩名・旧国名がわかる事典 「播磨国」の解説

はりまのくに【播磨国】

現在の兵庫県西南部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の姫路(ひめじ)市におかれていた。平安時代から鎌倉時代にかけては院や摂関家(せっかんけ)、社寺の荘園(しょうえん)が多く、広大な土地を占めた。14世紀初頭から悪党(あくとう)の活躍がめだつようになり、赤松則村(のりむら)は1333年(正慶(しょうけい)2/元弘(げんこう)3)に悪党を結集して挙兵し、後醍醐(ごだいご)天皇の討幕に参加した。関ヶ原の戦いのあとは池田輝政(てるまさ)が姫路城を改築して支配した。その後は、姫路藩明石藩のほか、赤穂(あこう)藩など小藩と幕府直轄領、旗本領などに分割された。1871年(明治4)の廃藩置県により兵庫県と姫路県となったが、のち姫路県は飾磨(しかま)県と改称、1876年(明治9)兵庫県に編入された。◇播州(ばんしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「播磨国」の解説

播磨国
はりまのくに

山陽道の国。現在の兵庫県南西部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では明石(あかし)・賀古・印南(いなみ)・飾磨(しかま)・揖保(いいぼ)・赤穂(あかほ)・佐用(さよ)・完粟(しさわ)・神埼・多可・賀茂・美嚢(みなき)の12郡からなる。国府・国分寺は飾磨郡(現,姫路市)におかれた。一宮は伊和神社(現,宍粟(しそう)市一宮町)。「和名抄」所載田数は2万1414町余。「延喜式」では調として布帛や塩のほか壺・盤・椀などの雑器が定められた。「播磨国風土記」には多くの屯倉(みやけ)の存在や渡来人による開発伝承が記され,畿内に接し早くから開けていたことを物語る。平安時代以降多くの荘園がおかれ,12世紀後半には平氏の知行国となる。鎌倉末期には悪党(あくとう)の活躍が顕著となり,赤松氏が台頭して室町幕府の有力守護大名となる。近世の支配は複雑で,大名領,幕領,旗本領,寺社領が混在。1871年(明治4)の廃藩置県により成立した10県と飛地領は姫路県とされ,さらに飾磨県と改称。76年兵庫県に編入された。

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