徳川家慶(読み)とくがわいえよし

精選版 日本国語大辞典 「徳川家慶」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえよし【徳川家慶】

江戸幕府第一二代将軍家斉次男幼名敏次郎。天保八年(一八三七)将軍となる。家斉死後大御所政治を改め、水野忠邦に天保の改革を断行させたが急激にすぎて失敗。のち阿部正弘を起用して、外国勢力の圧力の強まる難局にあたらせた。寛政五~嘉永六年(一七九三‐一八五三

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デジタル大辞泉 「徳川家慶」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえよし〔トクがはいへよし〕【徳川家慶】

[1793~1853]江戸幕府第12代将軍。在職1837~1853。家斉の二男。老中水野忠邦天保の改革を断行させたが、急激にすぎて失敗。のち、外国勢力の圧迫による難局にあたり、阿部正弘を起用。

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百科事典マイペディア 「徳川家慶」の意味・わかりやすい解説

徳川家慶【とくがわいえよし】

江戸幕府12代将軍(在位1837年―1853年)。11代家斉(いえなり)の子。幼名敏治郎。諡号(しごう)慎徳院。将軍就任当初は家斉が大御所として実権を握ったが,その死後,家斉側近を排し,水野忠邦を重用して天保改革を推進。アヘン戦争(しん)が敗れ,海防が急務となるなかペリーが来航,その直後に死去。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川家慶」の意味・わかりやすい解説

徳川家慶
とくがわいえよし
(1793―1853)

江戸幕府第12代将軍。11代将軍家斉(いえなり)の二男。幼名敏次郎。1837年(天保8)将軍職を継いだが、家斉在世中は家斉の大御所政治に実権を握られた。1841年、家斉の死後、老中水野忠邦(みずのただくに)を首座に任用して幕政の改革を行った(天保(てんぽう)の改革)。しかし、改革は急激にして、また各方面に厳格にすぎたため人心を失い、忠邦は2年余で失脚した。その後、阿部正弘(あべまさひろ)を老中首座に起用し、有力諸藩の改革派勢力に対して柔軟な路線を採用したため、幕末の雄藩連合運動の素地をつくることとなった。1853年(嘉永6)6月のペリー来航に際しては病床にあり、外交を正弘と水戸藩主徳川斉昭(なりあき)に任せて死去した。法号慎徳院。

[井上勝生]


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改訂新版 世界大百科事典 「徳川家慶」の意味・わかりやすい解説

徳川家慶 (とくがわいえよし)
生没年:1793-1853(寛政5-嘉永6)

江戸幕府12代将軍。11代将軍家斉(いえなり)の次男。母は押田氏の娘。幼名敏治郎。諡(おくりな)は慎徳院。1797年(寛政9)世子(せいし)となり西丸に入り,1837年(天保8)将軍職に就いたが,政治の実権はなお大御所家斉にあった。41年家斉の死後,家斉の側近勢力を排して幕政を親裁し,老中水野忠邦を重用して天保改革をすすめた。忠邦失脚後は阿部正弘を用いて海防問題の難局に当たったが,53年ペリーが浦賀に来航した直後に病没した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川家慶」の解説

徳川家慶
とくがわいえよし

1793.5.14~1853.6.22

江戸幕府12代将軍(在職1837.9.2~53.7.22)。父は11代家斉。母は側室香琳院。幼名敏次郎。法号慎徳院。1837年(天保8)将軍職を継いだが,父家斉が大御所として実権を握っていた。41年家斉の死後,信任する水野忠邦に倹約令と風紀取締りを基調とした天保の改革を断行させる。しかし43年上知令問題の紛糾のため水野を罷免。土井利位(としつら)を老中首座に任じたが,土井も1年足らずで辞任。その後阿部正弘を老中に抜擢し混乱した幕政を立てなおさせた。家慶は「そうせい様」と陰口され,江戸庶民は顔を鋳型でいろいろに変える女性の図柄で風刺した。53年(嘉永6)6月3日のペリー来航直後に病死。

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朝日日本歴史人物事典 「徳川家慶」の解説

徳川家慶

没年:嘉永6.6.22(1853.7.27)
生年:寛政5.5.14(1793.6.22)
江戸幕府12代将軍。徳川家斉の次男。母は側室お楽の方(押田氏,香琳院)。幼名は敏次郎。妻は有栖川宮織仁親王の娘喬子。院号は慎徳院。天保8(1837)年に将軍職についたが,大御所となった家斉とその側近に幕政を牛耳られ,実権を握れなかった。家斉の死後,12年から老中水野忠邦の手で天保の改革を断行させ,内憂外患の危機打開を図ろうとした。特に在任中に対外的危機が深刻化し,ペリー来日直後の慌ただしいさなかに亡くなった。かなりの大酒飲みで,お椀の蓋や大皿に酒を自ら注いで飲んだといわれる。

(藤田覚)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川家慶」の意味・わかりやすい解説

徳川家慶
とくがわいえよし

[生]寛政5(1793).5.14. 江戸
[没]嘉永6(1853).6.22. 江戸
江戸幕府 12代将軍 (在職 1837~53) 。家斉 (→大御所時代 ) の次男。母は押田敏勝の娘。幼名は敏次郎。院号は慎徳院。天保8 (37) 年4月2日将軍宣下。老中水野忠邦を重用して天保の改革を実行。この治世には外国船の出没が頻繁で,政治は内憂外患に見舞われた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川家慶」の解説

徳川家慶 とくがわ-いえよし

1793-1853 江戸幕府12代将軍。在職1837-53。
寛政5年5月14日生まれ。徳川家斉(いえなり)の次男。母はお楽の方(香琳院)。天保(てんぽう)8年将軍となるが,父家斉の大御所政治がつづく。12年家斉の死後,水野忠邦(ただくに)を老中首座とし天保の改革を断行。開国をせまるペリーの来航直後の嘉永(かえい)6年6月22日死去(発喪は7月22日)。61歳。幼名は敏次郎。法号は慎徳院。

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旺文社日本史事典 三訂版 「徳川家慶」の解説

徳川家慶
とくがわいえよし

1793〜1853
江戸幕府12代将軍(在職1837〜53)
11代将軍家斉の2男。1841年家斉の死後,大御所時代の弊政を改め,水野忠邦を登用し,天保の改革を断行させたが失敗に終わった。ペリー来航直後の幕政の危機のときに病死した。

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367日誕生日大事典 「徳川家慶」の解説

徳川家慶 (とくがわいえよし)

生年月日:1793年5月14日
江戸時代末期の江戸幕府第12代の将軍
1853年没

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