川尻(読み)かわじり

精選版 日本国語大辞典 「川尻」の意味・読み・例文・類語

かわ‐じり かは‥【川尻】

〘名〙 (「かわしり」とも)
書紀(720)仁徳一一年四月(前田本訓)「且河の水横に逝(なが)れて流末(カハシリ)(と)からず」
※金刀比羅本保元(1220頃か)下「遙(はるばる)河尻(カハシリ)より取り上げ奉りけれ共、はや云ふにかひなき有様也」

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デジタル大辞泉 「川尻」の意味・読み・例文・類語

かわ‐じり〔かは‐〕【川尻】

川下。下流。
川口かわぐち
[類語]下流川下

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改訂新版 世界大百科事典 「川尻」の意味・わかりやすい解説

川尻 (かわしり)

肥後国(熊本県)緑川川口に発達した河港で,熊本城下町の外港。地名の初出は1199年(正治1)。河尻荘地頭河尻泰明に招かれた寒巌義尹河尻大渡橋を架橋,1283年(弘安6)大慈寺を草創。鎌倉時代以来海上交通の要地として栄え,明代の図書編に牙子世六(八代),達加世(高瀬)などとともに肥後の港の一つとして開懐世利(かはせり)の名が見える。曹洞宗の開祖道元禅師が宋からの帰途川尻に漂着したと伝えるのも,交通の要所だったことの証であろう。戦国の動乱期に河尻氏が滅び1588年(天正16)加藤清正領有するに至って加悦飛驒を城代とした。1615年(元和1)破城となる。加藤・細川両氏の治下に,川尻御船手(海軍根拠地)と川尻御蔵がおかれた要地で,特権的な五ヵ町の一つとして位置づけられ,川尻町奉行のもと町別当・丁頭・町横目など町役人がおかれた。熊本から薩摩街道2里の宿場町で,島津公・相良公宿泊の御茶屋があった。明治になって鉄道開通後は港の機能を失った。1940年熊本市に合併。
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川尻 (かわじり)

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百科事典マイペディア 「川尻」の意味・わかりやすい解説

川尻【かわしり】

肥後国を流れる緑川河口の河湊で,熊本城下の外港。現在熊本市に属する。河尻とも記される。鎌倉初期,河尻荘地頭河尻実明は河尻城を築き,河尻の津を河湊として整備発展させた。弘安年間(1278年−1288年)実明の子孫泰明は寒巌義尹を招き,河尻大渡(おおわたり)橋を架橋,その北を寺地として大慈寺を建立した。近世に入ると加藤清正の領有となる。清正は川尻御船手を置き,文禄・慶長の役の際には清正軍の軍事物資輸送の基地となった。熊本藩細川氏の時代になると町奉行による支配が行われ,御船手は引き続き熊本藩水軍の根拠地であった。商港としても発達し,また薩摩街道の宿場町でもあった。鉄道開通後は港の機能は失われた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川尻」の意味・わかりやすい解説

川尻
かわじり

広島県南西部,呉市東部の旧町域。瀬戸内海に臨み,南東に浮かぶ。柏島を含む。 1922年町制。 1958年安登村の一部を編入。 2004年呉市に編入される。 JR呉線,国道 185号線に沿って,街村状に発達する集落の北側には水田とミカン畑が続き,海岸の埋立地には造船,自動車部品工場が立地する。また熊野町から導入された毛筆や,呉市の仁方から入ったやすりなどの製造もみられる。漁業は一本釣り,延縄である。背後にそびえる野呂山へさざなみスカイラインが通じ,一帯は瀬戸内海国立公園に属する。

川尻
かわしり

熊本県中部,熊本市南部の緑川右岸の地区。旧町名。 1940年熊本市に編入。江戸時代には米,木材,酒の積出港として栄えたが,現在は港の機能はなく,酒造のほか,刃物,木桶などの製造が行われる。九州屈指の古刹といわれる大慈禅寺がある。 JR鹿児島本線川尻駅がある。

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