岩瀬忠震(読み)イワセタダナリ

デジタル大辞泉 「岩瀬忠震」の意味・読み・例文・類語

いわせ‐ただなり〔いはせ‐〕【岩瀬忠震】

[1818~1861]江戸末期の幕臣。江戸の人。開国を説き、日米修好通商条約の締結に努力。将軍継嗣問題では一橋慶喜ひとつばしよしのぶ推したため、安政の大獄で処罰された。

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精選版 日本国語大辞典 「岩瀬忠震」の意味・読み・例文・類語

いわせ‐ただなり【岩瀬忠震】

江戸末期の幕臣。伊賀守・肥後守と称す。字は善鳴、百里。蟾洲、鴎処と号す。別号岐雲園。目付として、老中阿部正弘の下で外交活躍開国論を説き、日米修好通商条約の締結に参加井伊直弼によって左遷され、のち蟄居(ちっきょ)。文政元~文久元年(一八一八‐六一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩瀬忠震」の意味・わかりやすい解説

岩瀬忠震
いわせただなり
(1818―1861)

江戸末期の幕臣、外交家。幕臣設楽貞丈(しだらさだとも)の三男。岩瀬忠正の養子。通称篤三郎、修理(しゅり)。蟾州(せんしゅう)、鴎所(おうしょ)と号し、伊賀守(いがのかみ)、肥後守に任ず。幕臣中の俊傑と目された忠震は老中阿部正弘(まさひろ)に登用され、部屋住の身で1853年(嘉永6)徒頭(かちがしら)となり、翌年ペリーの再来日に際し目付に任ぜられ、海防・外交の第一線にたって開国政策を推進した。56年(安政3)アメリカ使節ハリスの来日にあたっては、開港通商のやみがたきを説き、下田奉行(ぶぎょう)井上清直(きよなお)とともに全権に任ぜられて日米修好通商条約の締結に尽力した。条約勅許を得るために老中堀田正睦(まさよし)に随行、上洛(じょうらく)したが果たさず、ついに勅許を待たず58年調印した。ついで外国奉行に就任、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間にも同様の条約を結んだ(安政(あんせい)五か国条約)。将軍継嗣(けいし)問題では、一橋(ひとつばし)派の中心人物として行動したため、大老井伊直弼(いいなおすけ)に忌まれ、五か国条約調印直後作事(さくじ)奉行に落とされ、翌年さらに免職、蟄居(ちっきょ)を命ぜられたが、直弼も忠震の外交における功績は高く評価した。勝海舟らの人材を登用し、開明派官僚の第一人者と目された。江戸・向島(むこうじま)の別邸に退き、文久(ぶんきゅう)元年7月16日病没した。44歳。

[多田 実]

『川崎三郎著『幕末三俊』(1897・春陽堂)』『福地源一郎著『幕末政治家』(1900・民友社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「岩瀬忠震」の意味・わかりやすい解説

岩瀬忠震 (いわせただなり)
生没年:1818-61(文政1-文久1)

幕末の政治家,外交家。通称は修理。伊賀守,肥後守を称し,号は鷗処など。旗本設楽貞丈の三男。旗本岩瀬家の養子となる。1851年(嘉永4)昌平黌教授となった。54年,阿部正弘に抜擢されて目付となり,同年軍制改正用掛を命じられ,品川台場築造や講武所,蕃書調所の設立などに当たった。ロシア使節プチャーチンの来航に際して,日露和親条約修正交渉に加わり,次いで57年(安政4)日蘭・日露追加条約の交渉に当たり,調印した。翌年,日米修好通商条約調印の勅許を得るべく,老中堀田正睦らと上京したが,成功しないまま全権として調印した。同年7月外国奉行となり,オランダ,ロシア,イギリス,フランス4国との通商条約にも全権として調印した。幕府内では開国論,自由貿易論を主導し,みずから香港渡航を申請した。一方,将軍継嗣問題では一橋派の有力者であったため,大老井伊直弼により作事奉行に左遷され,さらに官職,禄を奪われ永蟄居となった。
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朝日日本歴史人物事典 「岩瀬忠震」の解説

岩瀬忠震

没年:文久1.7.11(1861.8.16)
生年:文政1(1818)
幕末の幕府官僚。旗本設楽貞丈の3男,母は林述斎の娘。岩瀬家の養子となり,天保14(1843)年昌平黌大試験に乙科及第,嘉永2(1849)年部屋住のまま両番士,甲府徽典館学頭,昌平黌教授。ペリー来航後の安政1(1854)年1月永井尚志,大久保忠寛らと前後して目付に登用され,海防掛,軍制改正用掛,蕃書翻訳用掛,外国貿易取調掛を兼務した。同3年下田出張を命じられハリスと折衝,次第に積極的な開国論者としての態度を固め,同4年12月井上清直と共に全権委員に任命され日米修好通商条約草案の審議に当たる。翌5年老中堀田正睦に従って上洛,朝廷から条約調印の承認を得られず江戸に帰る。ロシア船に加え,アロー戦争に参軍中の英仏艦隊が来航するとの報に接し即時調印論を主張,「天地間の四大強国を引き請け候儀,亦愉快の一つに御座候」とは同年6月18日の感慨。翌日,井上清直と共に全権として条約に調印した。同年7月,新設の外国奉行に就任,引き続き蘭露英仏との間の条約を調印し,外交の第一線にあった。だが将軍継嗣問題で徳川慶喜擁立を図ったことから,井伊直弼により作事奉行に左遷,8月罷免・永蟄居に処せられ,江戸向島に屏居し没した。憂憤による死と伝えられる。<参考文献>松岡英夫『岩瀬忠震』

(井上勲)

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百科事典マイペディア 「岩瀬忠震」の意味・わかりやすい解説

岩瀬忠震【いわせただなり】

江戸末期の幕臣。老中阿部正弘に登用され,幕府外交を担当して日米修好通商条約調印に努め,外国奉行に昇進。幕府内の開国論,自由貿易論を主導した。将軍継嗣問題で一橋慶喜を将軍に推したため,1859年井伊直弼に退けられ,安政の大獄で隠居謹慎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岩瀬忠震」の意味・わかりやすい解説

岩瀬忠震
いわせただなり

[生]文政1(1818).江戸
[没]文久1(1861).7.16.
江戸時代末期の外国奉行。肥後守。幕臣設楽 (しだら) 貞丈の3男。岩瀬家の養子となる。ペリー来航の頃,目付として老中阿部正弘に登用された。開明的な思想をもち,井上清直とともに日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) の締結に尽力。同条約の勅許を得るため,老中堀田正睦らに従って京都におもむき,公卿の説得にあたった。大老井伊直弼から全権を与えられて,日米修好通商条約の調印にたずさわり,次いで外国奉行となったが,将軍継嗣問題では一橋慶喜を推して井伊と対立,安政6 (1859) 年解任されたうえ,8月処罰され,官位を奪われた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「岩瀬忠震」の解説

岩瀬忠震
いわせただなり

1818~61.7.11

幕末期の幕臣。父は設楽貞丈(しだらさだとも)。岩瀬家の養子。肥後守。老中阿部正弘に抜擢されて1854年(安政元)目付となる。海防掛などを兼務し,台場築造・大筒大船製造・軍制改正にあたる。56年7月ハリスが来日すると,交渉全権となる。58年老中堀田正睦(まさよし)と上京したが,条約勅許を得られないまま,日米修好通商条約に調印。新設の外国奉行となり,蘭・露・英・仏各国との通商条約調印の全権。一橋派だったため同年作事奉行に左遷され,翌59年差控となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩瀬忠震」の解説

岩瀬忠震 いわせ-ただなり

1818-1861 江戸時代後期の武士。
文政元年11月21日生まれ。嘉永(かえい)7年老中阿部正弘に重用され目付となる。開明派の幕臣として海防・外交の第一線で活躍。安政5年日米修好通商条約に調印。反井伊直弼(なおすけ)派であったため翌年免職,禄をうばわれ差控の処分をうけた。文久元年7月11日死去。44歳。本姓は設楽(しだら)。字(あざな)は善鳴。通称は忠三郎,修理。号は百里,蟾洲(せんしゅう),鴎所。

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旺文社日本史事典 三訂版 「岩瀬忠震」の解説

岩瀬忠震
いわせただなり

1818〜61
幕末の幕臣・外交家
江戸の人。老中阿部正弘に信任されて外交事務に従事。開国論者で,日米修好通商条約の締結に尽力し,井伊直弼 (なおすけ) の大老就任後,井上清直とともに通商条約に調印。のち外国奉行となったが,将軍継嗣問題で一橋慶喜 (よしのぶ) を推し,安政の大獄で処罰された。

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367日誕生日大事典 「岩瀬忠震」の解説

岩瀬忠震 (いわせただなり)

生年月日:1818年11月21日
江戸時代末期の幕府官僚;外国奉行
1861年没

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