姉川の戦い(読み)アネガワノタタカイ

デジタル大辞泉 「姉川の戦い」の意味・読み・例文・類語

あねがわ‐の‐たたかい〔あねがは‐たたかひ〕【姉川の戦い】

元亀元年(1570)織田信長徳川家康連合軍浅井長政朝倉義景の連合軍とが、姉川流域で争った合戦織田勢が大勝し、浅井・朝倉両氏滅亡のきっかけとなった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「姉川の戦い」の意味・わかりやすい解説

姉川の戦い
あねがわのたたかい

1570年(元亀1)6月28日、近江(おうみ)(滋賀県)の姉川畔で繰り広げられた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦い。戦いのあった場所の地名をとって、野村合戦とも三田村合戦ともよばれる。戦いの発端となったのは同年4月、信長越前(えちぜん)(福井県)の朝倉義景(よしかげ)を攻めたとき、朝倉氏との旧誼(きゅうぎ)によって浅井長政がそれまで同盟を結んでいた信長に反旗を翻したことにある。信長は妹婿(いもうとむこ)である長政の謀反を怒り、6月19日岐阜を出陣した。援軍である徳川家康軍勢とあわせ、その数3万4000といわれている。それに対する長政も義景の援軍を求め、その数2万1000と数えられている。戦いは6月28日早朝から姉川を挟んだ形で繰り広げられ、初め浅井・朝倉軍が優勢であったが、家康軍の善戦により織田・徳川連合軍の大勝利に終わった。義景の援軍は越前に敗走し、長政の軍勢も小谷城(おだにじょう)に逃げ込み、浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となった。

[小和田哲男]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「姉川の戦い」の意味・わかりやすい解説

姉川の戦い
あねがわのたたかい

元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。元亀1年4月,信長は朝倉氏追討の軍を起したが,浅井氏は,朝倉氏に呼応したので,信長は家康に援軍を依頼してこれに対した。初め浅井,朝倉連合軍が優勢であったが,徳川軍の奮戦により,結局織田,徳川連合軍の勝利に終った。織田,徳川軍の兵力は,2万 9000人,浅井,朝倉連合軍のそれは1万 8000人という。この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定した。浅井,朝倉両氏はこの敗戦により,次第に勢力を失い,やがて信長によって滅ぼされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「姉川の戦い」の解説

姉川の戦い
あねがわのたたかい

1570(元亀元)年,近江国(滋賀県)姉川流域で行われた織田信長・徳川家康と浅井長政・朝倉義景との合戦
信長は足利義昭 (よしあき) を奉じて上洛,浅井・朝倉氏はこれを阻止し,近江の東部,浅井氏の居城小谷城東南方で戦った。信長軍は初め危うかったが家康軍の奮戦で勝ち,浅井・朝倉両氏は決定的打撃をうけ滅亡した。

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