大村純忠(読み)おおむらすみただ

精選版 日本国語大辞典 「大村純忠」の意味・読み・例文・類語

おおむら‐すみただ【大村純忠】

戦国大名。日本最初のキリシタン大名。領内にキリシタン改宗を強制し、豊臣秀吉伴天連追放令の一因をなす。長崎を開港して南蛮貿易を行ない、大友氏有馬氏とともにローマ法王に使節を派遣。法名円通院理仙日融。洗礼名バルトロメウ。天文二~天正一五年(一五三三‐八七

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デジタル大辞泉 「大村純忠」の意味・読み・例文・類語

おおむら‐すみただ〔おほむら‐〕【大村純忠】

[1533~1587]戦国時代の武将。日本初のキリシタン大名洗礼名バルトロメヨ。南蛮貿易中心の外交政策を行い、大友・有馬氏とともにローマ教皇に少年使節を派遣。→天正遣欧使節

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大村純忠」の意味・わかりやすい解説

大村純忠
おおむらすみただ
(1533―1587)

戦国末期の大名。肥前高来(たかく)(長崎県)の領主有馬晴純(ありまはるずみ)(1483―1566)の次男として生まれ、1538年(天文7)大村(長崎県)の領主大村純前(すみさき)(?―1551)の養子となり、1550年家督を継ぐ。純前の実子貴明(たかあき)(1534―1583)は庶子であったため、武雄(たけお)(佐賀県)の後藤純明(ごとうすみあき)(?―1553)の養子となった。この相続事情は家臣団の分裂をきたす原因となった。1561年(永禄4)修道士ルイス・デ・アルメイダが領内の横瀬浦を訪れたのを機にキリスト教およびポルトガル貿易にひかれ、この地を開港場とし、当時日本布教の最高責任者であったコスメ・デ・トルレスを好遇し、1563年には受洗してバルトロメオと称した。キリシタン大名の最初である。以後、積極的に布教保護の方針を進め、反対派によって横瀬浦が焼打ちされると、1565年には福田港を開きポルトガル船の誘致に努め、1570年(元亀1)には長崎開港をみるに至り、やがて同地は伝道と貿易の中心地となった。1580年(天正8)には長崎周辺の土地をイエズス会に寄進し、またバリニャーノの企画した少年遣欧使節を派遣したが、この間龍造寺(りゅうぞうじ)氏からの圧迫甚だしく、1584年以降一時完全に領主権を喪失するに至った。しかし、龍造寺隆信(たかのぶ)が有馬・島津の連合軍に敗れ戦死したため、その支配から解放された。やがて豊臣秀吉(とよとみひでよし)が島津氏征討のため九州に出陣すると、純忠は秀吉の下知に従い、これにより旧領を安堵(あんど)され、豊臣政権下の一大名となったが、この直前1587年5月25日(天正15年4月18日)没した。

[箭内健次 2018年3月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「大村純忠」の意味・わかりやすい解説

大村純忠 (おおむらすみただ)
生没年:1533-87(天文2-天正15)

肥前国大村を本拠とした戦国期の武将。入道して理専,キリシタンとしてドン・バルトロメオ。有馬晴純の子,大村純前(すみあき)の養嗣子。キリシタン大名として有名。1562年(永禄5)キリシタンに好意を示すことによって,ちょうど平戸でトラブルをおこしていたポルトガル船を領内横瀬浦に招致。63年受洗することによって,貿易上の結びつきをより強固なものとした。しかし同年大村氏出身の後藤貴明とそれに同調する純忠家臣に横瀬浦を襲われ,滞在していた純忠はかろうじて逃れたものの,横瀬浦は焼亡,領内も反乱軍と貴明にほとんど掌握された。翌年大村領を回復,海戦でも貴明と平戸の松浦氏の連合軍を撃破。その後,領内福田浦がポルトガル船の寄港地となったが,良港でないため70年(元亀1)から同じ純忠領の長崎が新寄港地となり,80年(天正8)同地と隣の茂木を純忠は教会領に寄進,長崎の貿易港としての発展のもとをつくった。82年大友宗麟らと少年使節団を派遣したとされるが,この使節には疑問が多い。
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朝日日本歴史人物事典 「大村純忠」の解説

大村純忠

没年:天正15.4.18(1587.5.25)
生年:天文2(1533)
戦国時代の武将,最初のキリシタン大名。父は戦国大名有馬晴純,母は大村純伊の娘。幼名勝童丸。大村純前の養子となり,元服して民部大輔に任ぜられ,天文19(1550)年,18歳で大村家を相続し,のち丹後守に転じた。南蛮貿易の利に着目し,宣教師を厚遇して領内に招き,永禄5(1562)年ポルトガル船を大村領の横瀬浦(長崎県の西彼杵半島北端)に入港させた。翌年イエズス会布教長トルレスからみずから横瀬浦で受洗し,バルトロメウの洗礼名を得,最初のキリシタン大名となった。宣教師,ポルトガル商人との親交が深まり,元亀2(1571)年,大村領の長崎にポルトガル船が入港,以後,長崎は南蛮貿易の中心地として栄えるようになった。また天正2(1574)年にはコエリョの要請で領内の領民を強制的にキリシタンに改宗させ,神社仏閣を破壊した。同8年,純忠は長崎と茂木の両港をイエズス会に寄進し,長崎は教会領となって日本のキリシタン布教の中心地となる。晩年,純忠は佐賀の竜造寺隆信の圧迫に苦しめられたが,キリシタンとしての信仰を深め,大村坂口館で病没した。<参考文献>松田毅一『大村純忠伝』

(宮崎賢太郎)

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百科事典マイペディア 「大村純忠」の意味・わかりやすい解説

大村純忠【おおむらすみただ】

戦国時代,日本最初のキリシタン大名。教名バルトロメオ。1570年ポルトガル船のため長崎を開港,長崎発展の基礎を築く。1582年有馬晴信大友宗麟とともに天正遣欧使節を派遣。
→関連項目大村[市]千々石ミゲルトレス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大村純忠」の意味・わかりやすい解説

大村純忠
おおむらすみただ

[生]天文2(1533).肥前,高来
[没]天正15(1587).5.18. 肥前,大村
安土桃山時代のキリシタン大名。有馬清純の次男。天文7 (1538) 年,大村純前 (すみさき) の養子。領内に入ってきたイエズス会の宣教師と交渉をもち,永禄6 (63) 年受洗してバルトロメオと名のり,日本で最初のキリシタン大名となった。長崎を領内にもっていたことから南蛮貿易,外国との交渉を積極的に行い,天正 10 (82) 年には大友,有馬氏とともに,ローマ教皇に少年遣欧使節を送った (→天正遣欧使節 ) 。純忠のキリスト教信仰は狂信的であるとして,領内の反発を招き,他氏との争いも絶えなかったが,同 15年秀吉に本領を安堵され,同年没した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大村純忠」の解説

大村純忠
おおむらすみただ

1533~87.4.18/5.18

戦国期~織豊期の肥前国の武将。父は有馬晴純(はるずみ)。幼名勝童丸。法名理専(りせん)。丹後守・民部大輔。1538年(天文7)大村純前(すみあき)の養子となり,50年同家を相続するが,襲封後も純前の実子後藤貴明(たかあきら)を擁する一派などと抗争が続く。南蛮貿易を積極的に行い,63年(永禄6)に洗礼をうけ最初のキリシタン大名となったが,改宗を不満とする謀反がおき追放された。その後,有馬晴純の援助で復帰。80年(天正8)に竜造寺隆信の軍事的圧迫に屈服し,一時領国主の地位を失い逼塞(ひっそく)させられるなど,統治は終始不安定であった。82年,甥千々石(ちぢわ)ミゲルを遣欧使節の一員として派遣。86年子喜前(よしあき)に家督を譲り,翌年大村坂口館で死没。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大村純忠」の解説

大村純忠 おおむら-すみただ

1533-1587 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)2年生まれ。有馬晴純(はるずみ)の次男。大村純前(すみあき)の養子。天文19年大村家をつぐ。永禄(えいろく)6年に受洗,バルトロメウの洗礼名をうけ初のキリシタン大名となる。天正(てんしょう)8年長崎港周辺の土地をイエズス会に寄進,のち長崎が貿易港に発展する基礎をつくった。10年少年使節をローマに派遣した。天正15年4/5月18日死去。55歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大村純忠」の解説

大村純忠
おおむらすみただ

1533〜87
戦国・安土桃山時代のキリシタン大名
有馬晴純の2男。肥前(長崎県)大村城主大村純前 (すみあき) の養子となる。1563年受洗し,わが国最初のキリシタン大名となった。教名バルトロメオ。'70年南蛮船に長崎を開港し,'80年には長崎・浦上などをイエズス会に寄進。'82年天正遣欧使節をローマに派遣した。

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世界大百科事典(旧版)内の大村純忠の言及

【キリシタン大名】より

…九州の諸大名は金や軍需品などの獲得のためにポルトガル船の寄港を望み,宣教師の領内布教を許した。1563年(永禄6)肥前の大村純忠は改宗して最初のキリシタン大名となり(霊名バルトロメイ),長崎の地をイエズス会に寄進した。豊後の大友宗麟(義鎮)は78年(天正6)に改宗しフランシスコと称したが家運はすでに傾いていた。…

【鎖国】より

…秀吉の突然の禁令の背景には,長崎,茂木が教会領となっていたことへの反発があったと考えられている。1580年肥前の領主大村純忠・喜前(よしあき)父子は長崎,茂木をイエズス会に寄進し,その土地所有権,行政権,裁判権とポルトガル船の停泊税が会の手に渡り,大村氏の手にはわずかに入港船の貿易税徴収権が留保されるにとどまった。秀吉の念頭には,寺内町という独自の都市領域を持ち,自宗以外の寺社を破却し〈百姓ノ持タル国〉を現出して天下統一に最大の抵抗を試みた石山本願寺と一向一揆の影が去りやらず,このような外国の宗教領主の存在を容認することはできなかった。…

【南蛮貿易】より

… 九州の諸大名は鉄砲や硝石等の武器弾薬を入手して貿易の利を得ようとし,キリシタン宣教師にキリスト教の布教を許すなどして自領内へのポルトガル商船誘致に努めた。とくに肥前大村の領主大村純忠はみずからキリスト教に改宗し,イエズス会の要請をいれて,70年(元亀1)長崎港を開いた。翌年ポルトガル商船がはじめて長崎に入港し,同地は一寒村から貿易都市として発展していくが,ポルトガル人の長崎貿易は1638年(寛永15)までしか続かなかった。…

※「大村純忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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