大念仏寺(読み)ダイネンブツジ

デジタル大辞泉 「大念仏寺」の意味・読み・例文・類語

だいねんぶつ‐じ【大念仏寺】

大阪市平野区にある融通念仏宗総本山。山号は大源山、院号は諸仏護念院。開創は大治2年(1127)、開山は良忍。兵火によって一時期衰退したが、鎌倉末期に法明が中興。

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精選版 日本国語大辞典 「大念仏寺」の意味・読み・例文・類語

だいねんぶつ‐じ【大念仏寺】

大阪市平野区平野上町にある融通念仏宗の総本山。正称は大源山諸仏護念院。大治二年(一一二七)融通念仏宗開祖良忍の草創と伝えられる。のち火災などにより衰えたが、元亨年間(一三二一‐二四法明良尊が再興。江戸時代には、幕府の保護のもとに一宗の檀林に定められた。所蔵する菅原道真筆の「毛詩鄭箋(もうしていせん)残巻」は国宝。大念仏。平野の大念仏。亀鐘寺。

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日本歴史地名大系 「大念仏寺」の解説

大念仏寺
だいねんぶつじ

[現在地名]平野区平野上町一丁目

旧奈良街道南側にある。融通念仏宗本山で、大源山諸仏護念院と号し、本尊は十一尊天得如来画像。開祖は融通念仏の創始者とされ、日本声明学の中興といわれる良忍。大治二年(一一二七)四天王寺(現天王寺区)留錫していた良忍の夢に聖徳太子が現れ、これより東南の杭全くまたの里に念仏道場を建てよと告げたので、杭全神社の一宇修楽しゆらく寺を改修し、鳥羽上皇を本願大施主として建立したのに始まると伝える。第六世良鎮の代になりあとを継承するものがなかったため、良鎮は法脈宗宝などのすべてを山城石清水いわしみず八幡宮に預け、寿永元年(一一八二)没した。元亨元年(一三二一)に至り、融通念仏中興の祖と称される良尊法明が石清水八幡の霊告を受けて、法脈を継承したと伝える(大念仏寺誌ほか)。法明は当寺中興の祖とされ、融通念仏宗の中本山的存在である六別時も法明の創建といわれるが、法明については不明な点が多い。融通念仏宗の根本教義である融通念仏の教えは中世以降全国に広まり、各地に融通念仏集団が形成された。また、融通念仏は一遍の念仏と近似しており、時宗の教えと混用された。元中五年(一三八八)には、後小松天皇から融通念仏勧進帳序文の宸翰(国指定重要文化財)を下賜されており、明徳二年(一三九一)には版画融通念仏縁起二巻(国指定重要文化財)が開版された。

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改訂新版 世界大百科事典 「大念仏寺」の意味・わかりやすい解説

大念仏寺 (だいねんぶつじ)

大阪市平野区平野上町にある融通(ゆうづう)念仏宗の総本山。大源山諸仏護念院と号する。融通念仏の開祖良忍が四天王寺で聖徳太子の夢告を受け,1127年(大治2)この地に道場を建立したのが当寺の開創と伝える。本尊は良忍が感得したという十一尊天得如来。第6世良鎮のとき火災にあい,これより約140年間継承者が絶えた。元亨年間(1321-24)法明が第7世となり,堂舎を再興,石清水(いわしみず)八幡に伝えられていた融通念仏を平野に移し,法灯を復興して中興の祖となった。1332年(元弘2)罹災,まもなく再興し,1615年(元和1)大坂夏の陣で再び炎上した。徳川家康・家光らの援助,第43世舜空らの募財によって,67年(寛文7)本堂が再建され,その後も復旧が続いた。これよりさき1661年には総本山となり,96年(元禄9)一宗の檀林と定められた。1799年(寛政11)毘沙門堂,1844年(弘化1)羅漢堂,地蔵堂などが造営され,寺観が整った。しかし明治に入って,92年に霊明殿,98年に本堂,阿弥陀堂,御影堂など主要な建造物があいついで焼失。復興は1901年の別時寮,骨堂,03年待賓殿と進み,いまある伽藍はほとんどが昭和になってからのものである。年中行事に阿弥陀経万部会(二十五菩薩練供養,5月1~10日),百万遍大数珠くり(1,5,9月の16日)がある。紙本墨書《毛詩鄭箋》残巻(国宝),版本《融通念仏縁起》(1391,重要文化財)などを蔵する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大念仏寺」の意味・わかりやすい解説

大念仏寺
だいねんぶつじ

大阪市平野(ひらの)区平野上町にある融通念仏宗の総本山。大源山(だいげんざん)諸仏護念院と号し、俗に「平野の大念仏」とよばれる。古くは亀鉦寺(かめがねでら)ともよばれた。本尊は十一尊天得如来(にょらい)。聖応(しょうおう)大師良忍(りょうにん)(1072―1132)が、比叡(ひえい)山、洛北(らくほく)大原での長い修行ののち、1117年(永久5)融通念仏を創唱、1127年(大治2)現在地に堂宇を建て根本道場としたのを起源とする。たびたびの兵火にあって寺運衰え、法脈は一時は山城(やましろ)(京都府)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に移されていたが、元亨(げんこう)年間(1321~24)第7世法明上人(ほうみょうしょうにん)が継承して中興の祖となる。その後も1332年(元弘2)、1615年(元和1)に兵火で焼失したが、歴代朝廷や徳川幕府の念仏信仰に支えられ隆盛をみた。山門、鐘楼、霊明殿などは江戸時代の建築であるが、そのほか大部分の建物は1898年(明治31)の火災後に再建されたものである。寺宝には菅原道真(すがわらのみちざね)筆の毛詩鄭箋(もうしていせん)残巻一巻(国宝)、わが国最初の絵巻物版本『融通念仏縁起』二巻、後小松(ごこまつ)天皇宸筆(しんぴつ)『融通念仏勧進帳』、『浄土論』(以上、国の重要文化財)などがある。毎年5月1~5日の万部法会(まんぶほうえ)には二十五菩薩練供養(ぼさつねりくよう)が行われる。また、1、5、9月の16日には百万遍大数珠(じゅず)繰りが行われる。

[大鹿実秋]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大念仏寺」の意味・わかりやすい解説

大念仏寺
だいねんぶつじ

大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山。諸仏護念院。開創は大治2 (1127) 年,開山は良忍。良忍が融通念仏の勧進で各地を遍歴する際,摂津平野の修楽寺を根本道場としたのが大念仏寺の前身である。中興は元亨1 (1321) 年良尊法明,再興は元禄2 (1689) 年融観大通。明治維新後一時天台宗の所轄となっていたが,1874年に融通念仏宗として独立。所蔵する『毛詩鄭箋残巻』 (1巻) は,『毛詩』 (詩経 ) の「周南関雎故訓伝」第一の 11篇と「召南鵲巣詁訓伝」第二の 14篇に乎古止点,送りがなを付した平安時代を下らない古抄本であり,国宝。

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世界大百科事典(旧版)内の大念仏寺の言及

【融通念仏宗】より

…大念仏宗などともいう。良忍は12世紀の初頭に,自分の念仏の功徳はいっさいの人に融通し,他人の唱える念仏も融通して自己の功徳となり,念仏は無限の念仏となって往生がなしとげられるとの思想に達し,1117年(永久5)以後この融通念仏の法を各地に広め,摂津国住吉の修楽寺(のちの大念仏寺)を根本道場とした。融通念仏は集団による大念仏運動であり,宗派としての形態をもたずに,民間に普及した。…

※「大念仏寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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