勢威ある人,または家の呼称。家格の一つ。邦訳《日葡辞書》には〈Taimei タイメイ(大名) Vôqina na(大きな名),土地を支配しているとか,行政官のようなある職務に任じているとかする大身の主君や貴人〉,また〈Daimiǒ(大名) 国の豪族あるいは貴人〉とある。これによれば大名(だいみよう)と大名(たいめい)は異なるもののようにも考えられるが,同書は諸大名(だいみよう)と諸大名(たいめい)を同義とし,また《節用集》なども一般的には両訓をのせているから,室町時代には二つのよみがあったといえる。この語は平安時代中ごろよりあらわれ,その起源としては,〈大名とは,田地の名(みよう)を多く持ちたるなるべし〉(《貞丈雑記》)という,大きな名(みよう)の持主説が通説となっているが,史料上で名田所有者をさす大名の名称は確認されない。平安・鎌倉時代では,〈大名一人と申すは,せいのすくないぢやう,五百騎にをとるは候はず〉(《平家物語》)とあるように,有勢者の呼称として用いられるのが一般的で,中国の唐六典などにみられる大名(たいめい)(大いなる名誉,またその者)の用法の系統をひく語と思われ,タイメイが本来のよみであったと思われる。
このように大名は一般呼称として用いられたから,それぞれの地域・集団に大名・小名とよばれるものが存在した。鎌倉幕府の御家人では,北条氏,千葉氏,畠山氏などの勢威ある御家人が大名とよばれたが,諸国には別の基準にもとづく土豪・豪族など有勢者としての大名・小名がいたのである。室町時代になり,《明応本節用集》に〈大名 タイメイ 守護之儀,銭持之義〉とあるように,幕府構成集団における武士の大名は,一種の家格化して主として守護をさす語となり,いっぽうでは都市・農村など民間の分限者をさす語となった。江戸時代の1万石以上を領有する幕府直属の武士をさす語としての大名は前者の系譜につながり,狂言などにみられる大名・小名は後者に属するものといえよう。
執筆者:勝俣 鎮夫
近世大名の成立
南北朝から室町時代にかけては,守護が領国を拡大して大名領を形成したところから守護大名とよばれるが,守護に代わって新しく台頭し,在地土豪の掌握を通じて一円知行化を推進した戦国時代の大名は戦国大名とよばれる。こうして形成された大名は,江戸時代に入って近世大名となり,大名領を完成,幕府を頂点とする幕藩体制を完成した。江戸時代の大名は,1万石以上の領主(藩主)をいい,将軍に対して直接奉公の義務をもつ者をさした。一般に大名という場合は,この江戸時代の大名を意味する。これに対して,1万石以下の領主を旗本,御家人(ごけにん),給人あるいは地頭などと称した。また大名の家臣は,たとえ1万石以上であっても大名の資格を有しなかった。これを将軍の立場から陪臣(ばいしん)とよんだ。又者(またもの)あるいは又家来という意味である。
大名の類別
大名は,その経歴,取立てによって旧族大名,織豊大名,徳川系大名(徳川一門=親藩,譜代大名)に分類される。旧族大名は戦国大名から近世大名に転化したもの。津軽,南部,伊達,佐竹,上杉,毛利,鍋島,松浦,大村,宗,相良,島津氏らで,東北,九州など辺境地帯の大大名が多い。織豊大名は織豊両氏の家臣から近世大名に取り立てられたもの。丹羽,前田,藤堂,仙石,池田(岡山,鳥取),浅野,蜂須賀,山内,黒田,有馬,細川氏らで(福島,加藤,京極,生駒氏らは改易(かいえき)),北陸,中国,四国,九州に多い。徳川系大名は徳川氏の一門,家臣から近世大名に取り立てられたもので,さらに親藩,譜代大名に分かれる。親藩には尾張,紀伊,水戸の三家および田安,一橋,清水の三卿をはじめ,越前,松江,高松,会津の各松平および久松氏ら,譜代大名には井伊,酒井,本多,榊原,大久保,土井,水野,戸田,小笠原,牧野,内藤,稲葉,久世,堀田,阿部,柳沢,間部,田沼氏らおよび家康以前に分かれた傍系松平一族がある。関東から東海,畿内にかけての中央地帯に多く,5万石以下の小大名が多い。さらにこれを将軍との親疎関係によって分類する場合は,三家,三卿,家門,譜代,外様に分けるが,家門は三家,三卿以外の親藩およびその分家をさし,旧族大名と織豊大名を徳川系大名に対して外様に一括する。
また領国や居城の規模によって,国主(国持),准国主,城主,城主格,無城に分け,あるいは江戸城中の詰間(つめのま)によって,大廊下,溜間(たまりのま),大広間,帝鑑間(ていかんのま),柳間,雁間(かりのま),菊間に分け,さらに官位によって,侍従以上,四品(しほん)(四位),諸大夫(五位)に分け,石高によって,10万石以上,5万石以上,1万石以上に分ける場合もある。大名はこれらの組合せによって複雑多岐な格式序列がつくられたが,このことは大名(藩)の存在形態がきわめて多様であったことを示している。大名の数は,初期3代の将軍による強力な大名統制によって,その数も安定しなかったが,その後しだいに固定し,中期以降には260家前後となった。そのなかで最も多かった大名は5万石以下の譜代大名である。
大名統制
幕府の大名統制の基本は改易と転封(てんぽう)(国替(くにがえ))である。徳川家康は覇権確立後,関ヶ原の戦後処理を通じて西軍にくみした外様大名を大規模に改易し,その所領を没収するとともに,これらの没収地を東軍に属して功労のあった外様大名に配分して転封する一方,直轄領(天領)に編入しあるいは親藩,譜代大名の取立てにあてた。こうして豊臣時代の大名配置は大きく変化したが,とりわけ東海,東山およびその周辺諸国は大きく変化した。家康はこれらの地域に配置されていた多くの豊臣大名を改易あるいは辺境地帯に転封して,新たに親藩,譜代大名を配置した。ここに徳川氏を中心とする新しい大名配置ができあがり,幕藩体制の大枠がつくられた。
戦後処理後の家康は幕府を創設する一方,法の制定と制度の整備・運用を通じて大名統制を強化したが,対豊臣政策を戦略の中心にすえた。豊臣氏の討滅-大坂落城後はその勢いにのって1615年(元和1),〈一国一城令〉につづいて大名統制の基本法をなす〈武家諸法度〉を制定するとともに,畿内を掌中に収め,大坂およびその周辺諸国に譜代大名を配置した。2代将軍秀忠は大坂の陣で諸大名に示した軍役規定を明文化(元和軍役令)する一方,畿内とその周辺諸国および対東北政策を戦略の中心にすえた。それによって,譜代大名は大坂周辺に集中配置されるとともに東北進出が積極化した。ついで3代将軍家光は九州を中心とする対西国政策に戦略の中心をすえたため,これまで比較的変化が少なかった西国の大名配置はここで大きく変化した。こうして東西九州に譜代大名が集中配置される一方,この過程で中国,四国においては,先に成立した三家につづいて松山,松江,高松の各松平家,および東北の会津松平家が成立し,この期に徳川系大名の配置は全国に拡大した。さらに家光は軍役規定を改訂・整備(寛永軍役令)する一方,参勤交代を制度化し,鎖国体制を完成した。ここで法と制度運用による大名統制はいっそう強化され,幕府権力の基礎は確立・安定した。
以上,初期3代の将軍による大名統制によって実に224名(うち徳川系大名49名)の大名が改易され,これに代わって延べ172名(改易を含まず)の親藩,譜代大名が創出・配置されて,幕府権力を支える強力な基盤となった。譜代大名はその後5代将軍綱吉によって統制をうけるが,6代将軍家宣以降は外様,譜代とも改易,転封が減少し,ほぼこの時代の大名数が固定したままで幕末に至った。
大名領の構造
大名の統制・創出策によって外様大名はしだいに辺境地帯に移され,代わって親藩,譜代大名が中央地帯に配置されていった。その後徳川系大名の配置は全国に拡大したが,とくに譜代大名の集中配置の地域は直轄領,旗本領とともに中央地帯にあり,しかもこれら3者間において所領の著しい統廃合,切替えが行われたため,中央地帯における譜代大名領は著しく分散知行化(非領国型)するに至った。以上に対して,旧領に定着した旧族外様大名や,早期に定着した豊臣系外様大名の多い辺境地帯および中間地帯は,領国の固定化によって一円的所領をたもち(領国型),両者の所領構造は大きく異なったのである。しかも,それは単に所領構造の相違にとどまらず,藩制の成立に異なった様相を与えた。概していえば,東北北部や九州など辺境地帯における旧族居付の外様大名が,最も独自な藩制を形成していった。
しかし,諸大名は幕府の統制下にあって,共通に軍役を負担し,幕藩体制の諸原則をそれぞれの領内に実施していった。兵農分離による家臣団の城下町集住策,検地の実施による小農民の創出と維持策,生産力の増強と貢租の増徴のための各種の勧農策,城下町の興隆と市場統制のための各種の流通策がそれである。初期の大名領は諸大名の直轄地(蔵入地)と家臣団の知行地(地方知行)に分かれていたが,諸大名は知行地の割替・分散化を通じて家臣団の知行権を制限し,あるいは蔵米で支給する俸禄制に切り替えて,大名権力の基礎を強化していった。それと同時に,家中法(藩法)を制定して家臣統制を強化する一方,藩の制度・機構を整備して,家老,城代,奉行以下の行政諸役を分掌させた。版籍奉還後,大名は公卿とともに華族となり,知藩事に任ぜられたが,廃藩置県の結果,知藩事は廃止された。
→藩
執筆者:藤野 保