吉野作造(読み)よしのさくぞう

精選版 日本国語大辞典 「吉野作造」の意味・読み・例文・類語

よしの‐さくぞう【吉野作造】

政治学者、思想家。宮城県出身。東京帝国大学教授。「中央公論」などに政治論文を発表、民本主義を唱え、大正デモクラシーを指導した。朝日新聞に入社したが筆禍事件で退社、のち「明治文化全集」を刊行した。明治一一~昭和八年(一八七八‐一九三三

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デジタル大辞泉 「吉野作造」の意味・読み・例文・類語

よしの‐さくぞう〔‐サクザウ〕【吉野作造】

[1878~1933]政治学者。宮城の生まれ。東大教授。民本主義を唱え、普通選挙の実施、政党内閣制などを主張し、また軍閥を攻撃。大正デモクラシーの理論的指導者。のち、「明治文化全集」を編集。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造
よしのさくぞう
(1878―1933)

政治学者。大正デモクラシーの理論的指導者。明治11年宮城県古川町(現大崎(おおさき)市)に生まれる。首席で県立尋常中学校を卒業後、二高を経て、1900年(明治33)に東京帝国大学法科に入学、政治学を専攻する。二高時代に、ミス・ブゼルの聖書講義や押川方義(おしかわまさよし)、海老名弾正(えびなだんじょう)らの説教を聞いたのが機縁でキリスト教の信仰をもつ。その後、東大学生時代には海老名が主宰する雑誌『新人』の編集を助けたり、本郷教会を通して安部磯雄(あべいそお)や木下尚江(きのしたなおえ)らのキリスト教社会主義者と交流する。大学では、小野塚喜平次(おのづかきへいじ)の影響を受け、とくに、小野塚の「衆民」主義とドイツ流の国家学や国法学からの政治学の独立を主張する実証主義的方法論を学んだ。1906年、清(しん)国の袁世凱(えんせいがい)の長子の家庭教師として招かれ、翌1907年には北洋法政専門学堂の教師となる。1909年に東大助教授に就任。翌1910年、3か年の欧米留学に出発。ベルリン牧野英一や佐々木惣一(そういち)らと交遊する。帰国後、1914年(大正3)に教授になり政治史講座を担当する。そうして、1916年1月『中央公論』に代表論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」を発表、以後、続々と『中央公論』に「民本主義」の政論を発表して、一躍論壇の寵児(ちょうじ)となる。

 吉野の政論は、主権の運用論、つまり、政治の目的が一般民衆の利福にあること、政策決定は一般民衆の意向によるべしとする民衆輿論(よろん)の尊重に力点が置かれた。彼は、大日本帝国憲法の枠内で立憲政治の実現を意図し、主権の所在と運用を明確に区分して、民衆は政治の「監督者」であって「主動者」でないとするなど、徹底した人民主権説をとらなかったので、社会主義者たちから批判された。しかし、普通選挙制や政党内閣制の主張、貴族院や枢密院改革論など具体的な内政改革を提唱し、また、軍備縮小論やシベリア出兵批判、武断的な植民地支配の攻撃や朝鮮・中国民族のナショナリズムに深い理解を示すなど「民主的国際主義」の対外認識を示した。1918年、福田徳三(とくぞう)らと黎明会(れいめいかい)を結成、また、東大内に新人会を組織して、民主主義擁護の言論活動や学生の啓蒙(けいもう)活動を行った。1924年2月、朝日新聞社に入社するが、筆禍事件を起こしてわずか3か月で退社。その後、『明治文化全集』を刊行するなどアカデミックな研究生活に没頭する。しかし、1926年に社会民衆党の結成に協力したり、五・一五事件(1932)を非難するなど最後まで果敢な社会的発言をやめなかった。

[西田 毅]

『『吉野作造博士民主主義論集』全8巻(1948・新紀元社)』『松本三之介著『「民本主義」の構造と機能――吉野作造を中心として』(『近代日本の政治と人間』所収・1966・創文社)』『松尾尊兌編『吉野作造集』(1976・筑摩書房)』『三谷太一郎編『吉野作造論集』(中公文庫)』『三谷太一郎編『吉野作造――民衆的示威運動を論ず/他』(1984・中央公論社)』


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百科事典マイペディア 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造【よしのさくぞう】

政治学者,思想家。宮城県生れ。東大卒。1909年東大助教授,のち教授。《中央公論》を中心にキリスト教的ヒューマニズムに立脚して文筆活動を展開。デモクラシーに民本主義の訳語を与え,普通選挙論,枢密院・貴族院権限縮小論,軍部改革論を主張して大正デモクラシーに理論的根拠を与えた。また新人会黎明会などを組織し,学生・インテリに強い影響を与えた。1924年朝日新聞社に入ったが,筆禍事件で退社。《明治文化全集》を編集。社会民衆党結成にも尽力。
→関連項目赤松克麿大山郁夫岡義武尾佐竹猛木村毅鈴木文治滝田樗陰服部撫松普選運動松尾尊【よし】宮武外骨森戸事件

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改訂新版 世界大百科事典 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造 (よしのさくぞう)
生没年:1878-1933(明治11-昭和8)

大正期の代表的政論家。宮城県古川の商家に生まれる。二高を経て東京大学法科に進み,在学中よりキリスト教を信じ海老名弾正の影響を受ける。1906年袁世凱家の家庭教師として渡清,09年東大助教授,翌年から13年までヨーロッパに学び,14年教授に昇任し政治史を担当。この年から《中央公論》に毎号のように政論を執筆。とくに16年1月号の〈憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず〉はデモクラシーに〈民本主義〉の訳語を与え,政治の目的は民衆の利福にあり,政策決定は民衆の意向によるべきであるとの2点をその内容とし,当面の政治目標として普通選挙と言論の自由に支えられた政党政治の実現を要求した。主権の所在を問わないのは不徹底だとの批判が社会主義者から出たが,国体無視のとがめを受けず,議会中心主義を主張できる理論的武器として,大正デモクラシー運動に大いに貢献した。18年福田徳三らとともに学者集団黎明会を結成し,華々しい啓蒙活動を展開し,内政の民主化とともに,朝鮮,中国の反日民族主義運動に対する理解をよびかけた。24年朝日新聞社論説顧問に迎えられたが,検察の圧力のため4月で退社。東大講師に復帰し,明治文化研究会をおこし《明治文化全集》(24巻)の刊行に尽力した。一方,1913年以来鈴木文治の相談役として友愛会など労働運動にも関係し,26年には社会民衆党の産婆役を務めた。
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朝日日本歴史人物事典 「吉野作造」の解説

吉野作造

没年:昭和8.3.18(1933)
生年:明治11.1.29(1878)
大正・昭和初期の政治学者。宮城県志田郡古川町(古川市)出身。第1次近衛内閣商工大臣吉野信次は3弟。宮城県尋常中学校(仙台一高),二高を経て,明治37(1904)年7月東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。大学院へ進み,42年2月東京帝大法科大学助教授となり,政治史担当。大正3(1914)年7月教授となる。13年2月東京帝大教授を辞職し,朝日新聞社に入るが,同社主催の講演および同紙掲載の論説が政府筋の忌諱にふれ,同年退社。東京帝大法学部非常勤講師となる。吉野の業績は3方面におよんでいる。第1は民本主義理論の形成である。それはデモクラシーの最大公約数を「人民の意思に基づく支配」に求め,その意味の最小限デモクラシーとしての民本主義が明治憲法下においても可能であることを論証した。それは普遍的にして日本的なデモクラシー論であった。第2の業績は中国革命史研究である。吉野は同時代の中国ナショナリズムの中に民本主義の台頭を見出し,中国革命の実証的研究と民本主義理論とを結びつけた。第3は明治文化研究である。これによって吉野は日本における民本主義の勃興の必然性を歴史的に実証しようとした。また民本主義論の立場から合法無産政党の成立に指導的役割を果たした。吉野は「民の声」を「神の声」として信じることができた本質的デモクラットであった。<著作>『吉野作造』(日本の名著48)

(三谷太一郎)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉野作造」の意味・わかりやすい解説

吉野作造
よしのさくぞう

[生]1878.1.29. 宮城,古川
[没]1933.3.18. 神奈川,逗子
大正デモクラシーの代表的思想家。 1904年東京大学卒業。 06年清国直隷総督袁世凱に長子克定の家庭教師として招かれ,天津の北洋法政専門学堂の教習,09年東大助教授,10年から3ヵ年イギリス,ドイツ,フランス,アメリカに留学,14年教授に進み政治史,政治学を担当。同時に『中央公論』により,盛んに民本主義の論陣を張り,普通選挙と政党内閣制の実施による民意の尊重を主張。 18年福田徳三とともに思想団体の黎明会をつくり,またその影響下にあった学生により新人会が生れた。 24年軍部攻撃の論文がもとで東大教授を辞任。一時朝日新聞社に勤めたが,再び東大講師として政治史を教えるかたわら,同年明治文化研究会を創立,その同人によって『明治文化全集』 24巻を刊行した。『支那革命小史』『現代の政治』など著書多数。社会民衆党の結成 (1926) と社会大衆党の成立 (32) にも尽力した。『吉野作造博士民主主義論集』 (8巻) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉野作造」の解説

吉野作造
よしのさくぞう

1878.1.29~1933.3.18

大正・昭和前期の政治学者・評論家。宮城県出身。東大卒。1909年(明治42)東京帝国大学助教授となり,翌年欧州留学。14年(大正3)同教授となり,政治史を担当。同年から28年(昭和3)まで「中央公論」に時事論文を発表,ことに16年1月号の「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」は有名で,「民本主義」を主張して大正デモクラシーに理論的根拠を与えた。18年には黎明会を結成。また友愛会など労働運動にも関係し,社会民衆党の結成にも助力した。著書は「支那革命小史」「欧州動乱史論」など多数あり,また「明治文化全集」24巻の刊行にも尽力。「吉野作造民本主義論集」全8巻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉野作造」の解説

吉野作造 よしの-さくぞう

1878-1933 明治-昭和時代前期の政治学者。
明治11年1月29日生まれ。吉野信次の兄。第二高等学校在学中,キリスト教に入信。大正3年母校東京帝大の教授。「中央公論」誌上で民本主義をとなえ,大正デモクラシー運動の理論的指導者となる。マルクス主義とは一線を画しながら,労働運動,朝鮮の学生運動などを支持。13年朝日新聞社に入社するが筆禍事件で退社。のち明治文化研究会を設立,「明治文化全集」を刊行し近代史研究につくした。昭和8年3月18日死去。56歳。宮城県出身。
【格言など】学生の真理探究の態度は多情でなくてはなりません(「学生に対する希望」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「吉野作造」の解説

吉野作造
よしのさくぞう

1878〜1933
大正・昭和期の政治学者・思想家
宮城県の生まれ。東大教授。論壇で活躍し『中央公論』などに多くの評論を発表,民本主義を提唱し,普通選挙・政党内閣制実現を主張。枢密院・貴族院・軍部を批判し,その改革を唱え,また黎明会 (れいめいかい) ,東大の新人会,社会民衆党結成にも関係し,大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。1924年軍部の圧迫で東大を辞し,一時朝日新聞社に入社。また明治文化研究会を創立し『明治文化全集』24巻の編集にあたった。

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世界大百科事典(旧版)内の吉野作造の言及

【解放】より

…大正・昭和期の雑誌。(1)第1次 吉野作造,福田徳三らの黎明会同人を中心として,デモクラシー思想の普及のために1919年(大正8)6月大鐙閣から発行された総合雑誌。創刊号の定価38銭。…

【国体思想】より

…1911年,小学校の国定教科書の南北朝記述をめぐって南北朝正閏問題が起こったが,北朝系の明治天皇の勅裁により君臣の大義から南朝正統が決定した。
[大正デモクラシー期]
 まず美濃部達吉の天皇機関説を上杉慎吉が天皇親政論から批判したのに対し,美濃部は国体は文化的概念であるとして法学的世界からそれを除き,吉野作造も日本国体の優秀性は特別の君臣情誼関係という民族精神の問題であるとして政治学の対象から除外し,デモクラシーと国体は矛盾しないとした。大正期には公認のイデオローグ井上哲次郎ですら《我国体と世界の趨勢》で,君主主義と民主主義の調和にこそ国体の安全があると説いた。…

【新人会】より

…東京帝国大学の学生を中心とする思想運動団体。1918年12月5日,吉野作造の弟子麻生久,赤松克麿,宮崎竜介らが新しい思想の伝達者,社会改造の担い手をめざして結成,翌19年2月には機関誌《デモクラシイ》を創刊した(1920年2月《先駆》,同年10月《同胞》と改題)。同月には東京亀戸の工場地帯に入り共産党指導者となる渡辺政之輔を中心とする分会を設立したのをはじめ,全国各地に支部を設けた。…

【中央公論】より

…樗陰はまず文芸欄を拡充し,明治末期から大正期にかけて谷崎潤一郎,志賀直哉,芥川竜之介ら新進作家を数多く登場させ,〈文壇の登竜門〉としての権威を築いた。ついで吉野作造,大山郁夫,福田徳三らを執筆者として起用し,雑誌は大正デモクラシー運動の思想的担い手の役割を果たした。吉野の〈憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず〉はその代表的論説であり,後の総合雑誌の巻頭論文なるものの典型となった。…

【民本主義】より

…この言葉は明治末年,古賀廉造,黒岩涙香(周六),茅原華山らによって使われはじめ,大正初年には井上哲次郎,上杉慎吉,永井柳太郎,西川光二郎,大山郁夫らがそれぞれの立場から用いていた。 それが時代の合言葉として脚光をあびたのは,吉野作造〈憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず〉(《中央公論》1916年1月号)による。吉野はこれを,democracyの訳語だとしつつ,法理上の〈主権の所在〉にかかわる民主主義とあえて区別して,君主国といえども立憲制をとる以上従うべき,〈主権運用の方法〉に関する政治上の原則とした。…

【浪人会】より

…18年,黒竜会とともに〈大阪朝日新聞膺懲(ようちよう)運動〉(白虹(はつこう)事件)を行い,また同会の行動を非難した雑誌《日本及日本人》にも攻撃を加えた。このような同会の行動を,吉野作造は,同年11月号の《中央公論》誌上で徹底的に攻撃した。これに対し浪人会側は,吉野に立会演説会の開催を申し入れ,同年11月22日,東京神田南明俱楽部で吉野対浪人会の立会演説会が行われたが,かえって聴衆の吉野支持の気運を高めることになった。…

※「吉野作造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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