吉野(奈良県)(読み)よしの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉野(奈良県)」の意味・わかりやすい解説

吉野(奈良県)
よしの

一般には奈良県南部の旧吉野郡一帯をさすが、狭義には吉野山のみをいうこともある。吉野地名は『日本書紀』神武(じんむ)天皇即位前紀戊午(つちのえうま)年8月条に「吉野の地」と記されるほか、『続日本後紀(しょくにほんこうき)』嘉祥(かしょう)元年(848)11月条に「大和(やまと)国吉野郡」とあり、『延喜式(えんぎしき)』『和名抄(わみょうしょう)』にも吉野郡の名がみえる。『万葉集』には吉野のほか芳野(よしの)、余思努(よしぬ)などとも書かれている。なお、『万葉集』に詠まれる吉野は吉野宮(吉野町宮滝)付近のことをさしている。

 旧吉野郡の面積は約2300平方キロメートルで県総面積の約60%を占めるが、人口は6万1696(2000)で、県総人口の約4%にすぎず、しかも年々減少を続けている。2005年(平成17)には吉野郡のうち、西吉野村大塔(おおとう)村が五條(ごじょう)市に編入されている。旧吉野郡の大部分東西に走る紀伊山地の中央部(奈良県では吉野山地と称する)を占め、東は三重県、南と西は和歌山県に接する。北は大台ヶ原(おおだいがはら)山に源を発する吉野川(紀ノ川上流)が急流をなして西流し、北岸の竜門山地を隔てて奈良盆地に臨む。一方、南部は熊野川支流で、嵌入(かんにゅう)蛇行しながら南流する北山川、十津(とつ)川によって東から南北方向の台高(だいこう)、大峰(おおみね)、伯母子(おばこ)の3山脈に分けられる。中央の大峰山脈北端の吉野山から大天井(おおてんじょう)ヶ岳、山上(さんじょう)ヶ岳、大普賢(おおふげん)岳、行者還(ぎょうじゃがえり)岳、八剣山(はっけんざん)など標高1500メートルを超える高峰が連なり近畿の屋根と称される。

 吉野山から山上ヶ岳に至る諸峰は金峰山(きんぶせん)とよばれ、古来修験道(しゅげんどう)の道場として知られた。吉野山上には根本道場の金峯山(きんぷせん)寺蔵王(ざおう)堂があり、山上ヶ岳には大峯山寺(おおみねさんじ)とよばれる金峯山寺山上蔵王堂がある。奈良・平安時代には歴代の天皇や藤原氏ら貴族が金峯山寺へ参詣(さんけい)している。1332年(元弘2)護良(もりよし)親王は金峯山寺の大衆(僧徒)の協力を得て吉野山で挙兵し、1336年(延元1・建武3)には後醍醐(ごだいご)天皇が吉野に逃れて行宮(あんぐう)を構え、ここに吉野朝(南朝)が成立した。行宮は賀名生(あのう)(五條市西吉野町)や吉野山などに置かれた。吉野各地に南朝にかかわる史跡が残る。十津川沿いの郷民も南朝に属したが、江戸末期に十津川郷士が討幕運動に加わり、五條代官所を襲撃したことはよく知られている。なお、霊場「吉野・大峯」は、2004年(平成16)「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

 吉野は北部の口(くち)吉野と南部の奥吉野に大別される。口吉野の河谷低地帯は奈良盆地と奥吉野との漸移(ぜんい)地帯で、古くから農業が行われ、河岸段丘上には水田、丘陵地には果樹園が展開している。また、吉野川沿いの大淀(おおよど)町、下市(しもいち)町、吉野町上市などは古くから地方経済の中心地として発達してきた。近年は住宅開発も進んでいる。吉野川上流地域はスギの美林で有名な吉野林業の中心地で、山間の緩傾地に村落があり、住民は代々林業に従事してきた。1956年(昭和31)から吉野熊野特定地域総合開発計画が実施され、十津川、北山川には電源開発により巨大なダムが建設された。それに伴って林道開発、道路網整備が進み、奥吉野の生活環境は一変し、陸の孤島のイメージは払拭(ふっしょく)されたが、その後、人口流出による過疎化が進行している。

 大峰山脈と、台高山脈の主峰大台ヶ原山は雄大な山岳美、渓谷美、森林美をもって吉野熊野国立公園の主要部を構成し、伯母子山脈西縁の和歌山県境地域は高野竜神(こうやりゅうじん)国定公園に含まれている。

[菊地一郎]

『林宏著『吉野の民俗誌』(1980・文化出版局)』『前登志夫著『新版吉野紀行』(1983・角川書店)』

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