吉良義央(読み)きらよしなか

精選版 日本国語大辞典 「吉良義央」の意味・読み・例文・類語

きら‐よしなか【吉良義央】

江戸前・中期の幕府の高家筆頭。義冬の子。幼名三郎。上野介と称する。江戸の人。元祿一四年(一七〇一勅使接待役となった赤穂藩主浅野長矩に江戸城中で切られ、負傷。のち赤穂浪士に殺された。寛永一八~元祿一五年(一六四一‐一七〇二

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デジタル大辞泉 「吉良義央」の意味・読み・例文・類語

きら‐よしなか【吉良義央】

[1641~1703]江戸中期の幕府の高家。通称、上野介こうずけのすけ。名は「よしひさ」とも。元禄14年(1701)、勅使下向の際、江戸城内で接待役の浅野長矩ながのりに斬りつけられて負傷。長矩は即日切腹、義央はおとがめなく、赤穂義士の討ち入りで殺された。→高家4

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改訂新版 世界大百科事典 「吉良義央」の意味・わかりやすい解説

吉良義央 (きらよしなか)
生没年:1641-1702(寛永18-元禄15)

江戸中期の幕臣。赤穂事件の中心人物。通称上野介。禄高は4200石。1668年(寛文8)に父の跡をついで高家(こうけ)となり肝煎(きもいり)をつとめたが,1701年(元禄14)3月14日に江戸城中で,礼式指導で侮辱されたとして赤穂藩主の浅野長矩(ながのり)に斬りつけられて負傷し,辞職して翌年隠居した。切腹となった長矩の家臣は,義央を浅野家を破滅に追いこんだ事実上の仇敵とみなし,義央は02年12月14日赤穂浪士に邸を襲われて殺害され,吉良家はその際の対処の仕方が〈不埒〉であるとして取りつぶされた。
執筆者: 赤穂浪士の討入りに取材した〈忠臣蔵物〉の作品群で,義央は中心人物の一人として描かれる。《仮名手本忠臣蔵》では,高武蔵守師直として登場し,専横なふるまいのうえに好色でわいろ取りの敵役となっている。これは《太平記》に登場する高師直(こうのもろなお)のイメージによるところも大きい。また,生捕りにされ,〈覚悟はできている,さあ,首をとれ〉と言いながらも,油断をみすまして大星由良助(ゆらのすけ)(大石良雄)に斬りかかるという,ひきょう未練な人物としても描かれている。〈忠臣蔵〉の詳細な演出史を示した《古今いろは評林》(1785)には,師直の演じ方に関し〈すべて此役は高位の姿にて,底意に恋をもって意地をふくみ,言葉しつこう憎がらるるやうにするを本意とする也〉と記されている。こうした師直像は,歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台をはじめとし,浪曲,講談,映画をも通して,ますます悪人として誇張され脚色されて,広く浸透していった。実在の義央は,高家の筆頭として,将軍の名代をつとめ,朝廷への使いや伊勢・日光の代参もした。諸儀式の礼典をまかされた諸大名には,有職故実(ゆうそくこじつ)の指導もした。また,義央は上杉家当主の実父であっただけでなく,島津家の岳父であり,将軍家や紀州家とも縁つづきになっていた。こうした彼の地位や年齢からくる傲慢不遜な点はあったであろう。しかし,吉良(現,愛知県西尾市の旧吉良町)の領主として黄金堤(こがねづつみ)の築堤や饗庭塩(あえばじお)の生産,新田の開発などを通し,領民から評価されている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉良義央」の意味・わかりやすい解説

吉良義央
きらよしなか
(1641―1702)

江戸時代の幕臣、高家衆(こうけしゅう)。赤穂(あこう)事件の中心人物。1702年(元禄15)12月14日、赤穂浪士に邸(やしき)を襲われて殺害された。吉良氏は清和(せいわ)源氏足利義康(あしかがよしやす)の流れをくみ、三河(みかわ)(愛知県)に住んで吉良を称し、足利将軍の一族として高い家柄を誇ったが、のち没落し、徳川期に入って旗本となった。義央はまず上野介(こうずけのすけ)、ついで左近衛権少将(さこんえのごんのしょうしょう)となり、父義冬(よしふゆ)を継いで高家となり肝煎(きもいり)を勤めた。所領は三河と上野(こうずけ)(群馬県)にあわせて4200石。1701年3月14日江戸城中で浅野長矩(ながのり)(赤穂城主)に斬(き)りつけられた原因は不明であるが、吉良が浅野に儀礼上の指示を十分に与えなかったのを浅野が遺恨としたものと浅野家中などでは信じていた。それが、のちに吉良が大石良雄らに殺される遠因となった。吉良は負傷後まもなく辞職を願って許され、8月には呉服橋から本所に転宅し、12月隠居して養子義周(よしちか)が家督を相続した。義周は赤穂浪士に襲われたときの仕方が「不埒(ふらち)」であるとの理由で信州高島の諏訪(すわ)家に預けられ、吉良家は断絶した。

[田原嗣郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉良義央」の意味・わかりやすい解説

吉良義央
きらよしなか

[生]寛永18(1641).9.2. 江戸
[没]元禄15(1702).12.15. 江戸
江戸時代の幕府の高家 (こうけ) 。「よしひさ」とも呼ばれる。若狭守義冬の子。幼名は三郎,のち左近。上野介と称した。承応2 (1653) 年,幕府に出仕,明暦3 (1657) 年,従四位下に叙し侍従となり,万治1 (1658) 年,上杉定勝の娘と婚姻。寛文3 (1663) 年には後西天皇 (ごさいてんのう) の践祚にあたり,賀使として上洛し,従四位上に叙せられた。また後西天皇譲位に関してもこれに参与し,つとに公式の典礼に精通し,幕府に重きをなした。元禄14(1701)年3月,幕府の年賀に対する答礼としての勅使下向に際し,その接待の典礼について,供応役である赤穂城主浅野長矩 (あさのながのり) に教授すべきこととなったが,14日義央の扱いに立腹した長矩は,江戸城白木書院の廊下において,義央に刃傷 (にんじょう) に及んだ。長矩は即日切腹,改易の処分を受けたが,義央は罪なしとの由を受け,26日職を辞した。この両者に対する処分の不均衡に対して不満をもった赤穂浪士(→赤穂義士)により,同 15年12月14日夜半,江戸本所松坂町の屋敷を襲撃され,讐敵として斬殺され,吉良家は断絶となった。(→赤穂事件吉良氏

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百科事典マイペディア 「吉良義央」の意味・わかりやすい解説

吉良義央【きらよしなか】

江戸中期の幕臣,高家。通称上野介(こうずけのすけ)。1668年父義冬の遺領を継ぎ,三河(みかわ)吉良4000石を領し,高家肝煎(きもいり)などを務めた。妻は上杉定勝の娘,子の綱憲は上杉家の養子となるなど上杉家との関係が深かった。1701年播磨(はりま)赤穂藩主浅野長矩の刃傷(にんじょう)を受け,翌年赤穂浪士に殺された。浪士討入りに取材した《忠臣蔵》物の作品群では専横なふるまいの際だつ敵役として描かれているが,領地では黄金(こがね)堤築造,饗庭(あえば)塩の生産,新田開発などを通じて領民の評価は高かった。
→関連項目大石良雄

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朝日日本歴史人物事典 「吉良義央」の解説

吉良義央

没年:元禄15.12.15(1703.1.31)
生年:寛永18.9.2(1641.10.6)
江戸前期の幕臣。幼名三郎,通称左近。父は幕臣若狭守義冬,母は酒井忠吉の娘。吉良家は足利一族の名門で,祖父義弥以来高家を務めた。明暦3(1657)年従四位下侍従に叙任され,上野介に改める。寛文3(1663)年従四位上に昇り,8年に家督を継ぎ,4200石を知行。延宝8(1680)年左少将に任じられ,天和3(1683)年より高家肝煎を務めた。元禄14(1701)年3月14日,江戸城中で勅使接待の事務執行中に赤穂藩主浅野長矩に斬りつけられて負傷し,同年隠居した。翌15年12月15日暁,切腹,改易の処分を受けた浅野長矩の旧臣たちに襲われて殺害される。吉良家を継いだ義周は16年2月4日,その際の処置をとがめられて改易に処せられた。義央は文芸の世界では悪役として喧伝されているが,知行地の三河国幡豆郡吉良地方では,築堤や塩の生産,新田開発などの功績により,名君と評価されている。

(深井雅海)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉良義央」の解説

吉良義央
きらよしなか

1641.9.2~1702.12.15

「よしひさ」とも。江戸前期の高家(こうけ)。義冬の子。母は酒井忠勝の弟忠吉の女。幼名三郎,通称左近。上野介。法名実山。1653年(承応2)幕府に出仕,従四位下侍従,従四位上左少将に任じられた。68年(寛文8)家督と高家肝煎(きもいり)を継ぐ。1701年(元禄14)勅使江戸下向の接待をめぐって,播磨国赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が江戸城中で刃傷沙汰に及び,長矩は即日切腹となった。義央は高家役の辞退を願い隠居したが,翌年浅野家旧臣の討入りで斬殺された(赤穂事件)。義央は尊大な気風と悪評高いが,領地三河国吉良地方(愛知県西尾市付近)では,富好(とみよし)新田の開発や黄金堤の築堤など水利事業を行った名君との評価もある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉良義央」の解説

吉良義央 きら-よしなか

1641-1703* 江戸時代前期の武士。
寛永18年9月2日生まれ。吉良義冬の子。高家(こうけ)。寛文8年家督をつぐ。元禄(げんろく)14年江戸城中で勅使接待の折,赤穂(あこう)藩主浅野長矩(ながのり)にきりつけられて負傷し,隠居する。元禄15年12月15日浅野の旧臣大石良雄らにおそわれ斬殺された。62歳。知行地三河(愛知県)吉良荘では善政を評価されている。通称は上野介(こうずけのすけ)。名は「よしひさ」ともよむ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「吉良義央」の解説

吉良義央
きらよしなか

1641〜1702
江戸前・中期の幕臣
上野介 (こうずけのすけ) と称し,江戸幕府の高家 (こうけ) として,儀式・典礼をつかさどった。1701年赤穂藩主浅野長矩 (ながのり) をはずかしめ殿中刃傷に至らしめたことから,翌年12月,赤穂藩牢人によって仇を討たれた。

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367日誕生日大事典 「吉良義央」の解説

吉良義央 (きらよしなか)

生年月日:1641年9月2日
江戸時代前期;中期の高家
1703年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の吉良義央の言及

【赤穂浪士】より

…これらの条件が浅野の罪を重くし,彼は即日切腹の処分をうけ,浅野家は取りつぶされた。吉良義央は儀礼担当の職にありながら浅野に十分な指示を与えず,浅野が恥をかくなどのことがあり,それを遺恨として吉良を殺そうとしたといわれ,浅野家中をはじめ巷間ではそのうわさを信じていたが,その実否は不明であり,幕府は浅野側の正当性はいっさい認めず一方的な犯罪として処理した。それにしてもこの処分は過酷であると世に受け取られた。…

【吉良[町]】より

…製塩は1971年まで続けられ,大正期には約140haの塩田があった。《忠臣蔵》で有名な吉良義央の領地で,義央は黄金堤を築くなどの善政をしいたので,地元では名君といわれ,華蔵寺に墓がある。温暖な気候と肥沃な土壌に恵まれて,米作,畜産,園芸,果樹など多角的な農業が行われる。…

【喧嘩両成敗法】より

…喧嘩両成敗法の本来のかたちは,喧嘩をした者は双方とも,〈理非〉つまり喧嘩の原因を問うことなく,同等の処罰をうける(相手の被害と同じ害を罰としてうける)というもので,この場合の喧嘩とは物理的闘争のみを指す。したがって喧嘩を仕掛けられても応戦しない者は処罰されない。たとえばAがBを怒らす原因(侮辱,横領,債務不履行等々)を作り,Bが実力行使に及んだ場合(B:理,A:非)でも,Aが応戦しないかぎり,Bのみが処罰される。…

【高師直】より

…南北朝時代の武将。室町幕府の初代執事。一時期上総,武蔵守護。師重の子。法名道常。官途は三河権守,1335年(建武2)武蔵権守,38年(延元3∥暦応1)から武蔵守。元弘の乱で主足利尊氏とともに挙兵。建武政府下では雑訴決断所,窪所(くぼどころ)に属して足利尊氏の代官的役割を果たした。南北朝時代に入ると将軍の執事,また直轄軍団長としての師直の活動はめざましく,38年に北畠顕家,48年(正平3∥貞和4)には楠木正行を敗死させて南朝側に痛手を与えた。…

※「吉良義央」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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