合戦(読み)カッセン

デジタル大辞泉 「合戦」の意味・読み・例文・類語

かっ‐せん【合戦】

[名](スル)
敵味方が出あって戦うこと。戦い。「関ヶ原合戦
(「がっせん」の形で)名詞の下に付いて、激しく争うさまを表す。「乱売合戦」「合戦
[類語]戦う有事戦時非常時乱世事変革命戦争非常いくさたたか戦役せんえきえきへい兵馬へいば兵戈へいか干戈かんか会戦交戦戦火兵火戦乱兵乱戦雲戦塵せんじん戦禍せんか大戦戦闘争う渡り合う切り結ぶ一戦を交える砲火を交える兵刃へいじんを交える干戈かんかを交える

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精選版 日本国語大辞典 「合戦」の意味・読み・例文・類語

こう‐せん カフ‥【合戦】

〘名〙 敵と味方とが相対して戦うこと。かっせん。
将門記(940頃か)「承平五年十月廿一日を以て〈略〉案の如く討合ひ、命を棄てて各合戦」
色葉字類抄(1177‐81)「合戦 闘乱部 カフセン」
[補注]「色葉字類抄」の例は、江戸時代写本である黒川本では「カッセン」という新しい形になっている。

かっ‐せん【合戦】

〘名〙 (「こうせん(かふせん)」の変化した語) 敵味方が出会って戦うこと。戦い。戦闘。
※平治(1220頃か)中「今朝のたたかひに敵十八騎討ちおとし、いまの合戦によき敵四騎射ころしたれば」 〔史記‐晉世家〕
[補注]「色葉字類抄」には「合戦 カフセン」とあるので、それ以前の時代の用例は「こうせん」の項に置いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「合戦」の意味・わかりやすい解説

合戦 (かっせん)

複数の兵士が戦闘をまじえること。その戦闘法はさまざまで,戦闘時刻により夜討・朝駆・昼討と呼ばれるもの,また地勢によっては平場合戦・山城攻め・船軍などの別,さらに武器によって矢軍・鉄砲軍など,ほかに攻撃法により水攻め・火攻め・兵糧攻めなど種々のものがあった。これらは多くの軍記物に散見するところであるが,合戦はこうした戦闘様式が複合的にからみあい展開された。

騎兵を中核としない古代軍団制にもとづく戦闘を別にすれば,騎射を主体とする戦闘法が一般化するのには〈武士〉の登場をまたねばならない。同じく中世とはいっても,源平争乱~鎌倉期の前期と南北朝・室町期の後期とではその戦闘法は相違する。まず中世初期にあっては戦闘員の主体は騎馬の士であった。そしてこれに従う所従などの徒歩者は,この時期,戦闘補助員として従軍する。戦場では,敵,味方相互に対陣しながら(とき)の声をあげ,両軍あい接するや,互いの将は名乗りをあげ,自己の系譜・功名を語る。この口合戦を皮切り矢合(やあわせ)となり,以後双方が射戦に移り,機を見て突出し,馬を馳せながらよき敵をさがす。これに遭遇するや一騎打ちで雌雄を決する。一騎打ちは往々にして組打ちによって勝負を決し,古来,功名の最たるものとされた。〈将は将をねらう〉,これが少なくとも源平時代の戦闘様式の基本であり,騎馬の士が雑兵(ぞうひょう)の手にかかることは恥とされた。後世,足軽の活躍によって戦闘法に変化をきたした室町中期以後でさえ,足軽の一矢に命をおとすことは〈当座の恥辱のみならず,末代迄の瑕瑾(かきん)を残せる〉(一条兼良《樵談治要》)といわれた。

 その後,騎射戦とともに徒歩戦も盛んとなり,ことに市街戦などの場合は武士も雑兵も乱戦状態を呈した。こうした中にあって合戦形態に大きな変革をもたらしたのはモンゴル襲来(元寇)であった。団体戦に長じたモンゴル軍の前に,名乗り・一騎駆けという在来の戦法は通用せず,これを機に南北朝以後,戦闘法は徒歩団体戦へと移るようになる。これに拍車をかけたのは,《太平記》などに散見する足軽の活躍であった。腹巻だけの軽武装の雑兵で足軽く疾走する歩卒の意よりかく呼ばれ,重装の騎馬武者とは別に,その機動性が重視されるに至った。奇襲・ゲリラ戦に長じた足軽あるいは野伏(のぶし)を多用する中世後期の戦闘法は,従来の主体であった騎馬の士をしだいに後方の指揮官的存在とした。加えて当時の槍の流行も大きく作用した。《応仁記》などには下卒の槍隊が大きな攻撃力をもったことが見えるが,戦国期には弓隊・鉄砲隊など個別の部隊編成が整えられるようになる。わけても16世紀中葉の鉄砲伝来が在来の戦闘法に与えた影響は大きかった。築城法の変化はもとより,鉄砲の導入により戦術は経済戦にまで及ぶ近代的様相をおびるに至った。
執筆者:

戦国末から近世初頭に起きた合戦も,長篠の戦が長篠城の攻防に始まり,大坂夏の陣で城側が城外で合戦を挑んだように,城攻めまたは籠城とからみ合って,一つの戦争の一部を成していた。しかし,戦国大名の場合どちらかといえば本城や支城の防備を基軸として家臣団が編成されていたのに対し,支城が破却され(城破り(しろわり)・一国一城令),家臣団の城下町集住を原則とする近世大名においては,合戦を基軸としてすべての家臣が編成されていた。その編成表が分限帳(ぶげんちよう)であるが,それによれば大名の軍隊は,家老を大将とするほぼ1万石程度の戦闘単位である備(そなえ)によって構成され,大名自身も旗本備または本陣と呼ばれる直属の戦闘単位を率いた。各備は先備(さきぞなえ)・二の備・本陣・殿(しんがり)のように合戦における役割によって配列され,本陣からの命令は使番(つかいばん)によって伝達され,その実行が監察された。備の内部は押(おし)(行軍)の順序に従って編成され,先頭には大型の旗数本を持つ旗指(はたさし)の集団が配置され,旗奉行が統率する。これらの旗は戦闘中は大将のそばにひるがえり続け,本営の位置を示すとともに全軍の士気を鼓舞する役を果たした。次に鉄砲足軽の集団が続く。1組30人程度で1~2組がふつうである。次に弓足軽。次に長柄(槍)足軽。これらの足軽組は,それぞれ鉄砲頭などの物頭(ものがしら)が統率する。次に大将が小姓以下に側近を護衛されて位置し,その後に20人程度の騎馬武者の一隊が続く。最後に兵糧を運ぶ小荷駄(こにだ)が配置される。以上の備には共通の旗印・合印(あいじるし)・合言葉が定められ,混乱を防ぐよう配慮されていた。野営には,民家や寺社も徴発されたが,近世では急造の陣小屋が作られ,そのための大工の部隊が別に編成されるのがふつうであった。ただし,宿所の周囲を陣幕でかこい,さらにその外側に柵を結い巡らして敵襲に備えたのは中世と同様である。

 合戦は,行軍の順序に従って鉄砲の撃合いから始まった。距離が縮まると弓が加わり,続いて槍足軽の接触の後に,騎馬武者の乱闘へと展開した。各備の担当する正面はせいぜい10間程度であり,したがって地形によっては複数の備が並列して戦うことが必要であったと思われる。このように備が縦深的に構成されていたために,隊列に横槍を入れる(とくに敵の右側から)のは有効な戦術であった。また乱闘に際して馬を雑兵に預けて歩行立ちで戦うのは,近世初期ではふつうであったが,退却する敵の後を慕う(追撃)には馬の機動力が有利とされた。

 近世の合戦の勝敗が,豊臣秀吉以降に本格的に創設された鉄砲足軽隊によって決定されたのは事実であるが,武士の軍功は一騎打ちによって得た首級にあるとする気風は近世を通じて残存した。また小荷駄隊など組織的に整備された兵站を有する近世の軍団では,刈田狼藉放火など中世の戦争にはつきものの行為軍法によって禁止されたが,実際には徹底せず,軍団の行動範囲の住民の迷惑となった点は中世と同様であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「合戦」の意味・わかりやすい解説

合戦
かっせん

敵味方の両軍が軍場(いくさば)(戦場)に出合って戦闘を交えること。合戦の語は、すでに『将門記(しょうもんき)』にみえるが、戦闘の規模や方式は、武器・武具の発達や時代の進展に伴って大きな変化を遂げた。

 古代軍団制時代の戦闘法は、剣矛弓箭(きゅうせん)を携行する兵士らの歩兵密集戦法が主体で、一部に騎兵や弩手(どしゅ)が配備された。8世紀末、騎兵制の健児(こんでい)が設置されたが、平安中期以降、律令制(りつりょうせい)の崩壊とともに有名無実となり、やがて、兵馬の権は武士階級の掌握することとなる。11世紀のなかば、前九年、後三年の両役に騎馬に優れた東国の武士が活躍し、さらに12世紀の中ごろ、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱を経て、源平合戦の時代には、騎射戦中心の時代に入った。当時の戦いは、騎士相互の個人戦が主体で、敵味方が対陣して、まず鬨(とき)の声をあげ、ついで主将が名のりをあげ、鏑矢(かぶらや)の応酬によって矢戦を開始し、ころあいをみて一騎駆けでよき相手をみつけ、射合って相手を射落とすか、馬上の太刀(たち)打ちから組打ちに転じ、敵の首級をあげることを武士の名誉とした。しかし一部では、木曽義仲(きそよしなか)の倶利伽羅(くりから)峠の戦いや、源義経(よしつね)の鵯(ひよどり)越えの戦いなど、騎馬の集団的機動力を活用した例もみられた。

[渡邉一郎]

元寇以降

鎌倉中期、1274年(文永11)の元寇(げんこう)に際し、西国の武士は伝統的な懸合(かけあ)い戦法でこれに対抗しようとしたが、蒙古(もうこ)軍の集団戦術の前に、人馬ともに大打撃を受けた。この経験を通して、鎌倉末期から南北朝の動乱期には、これまで補助的な戦闘員であった所従(しょじゅう)・下人(げにん)らに長刀(なぎなた)、槍(やり)などの武器を持たせた徒歩兵の集団戦法も登場し、戦闘は一段と激烈な様相を示すようになった。また腹巻一つの軽武装で機敏に行動する足軽が出現し、その機動性が注目された。さらに、室町中期、10年余にわたった応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~77)では、戦闘の長期化とともに兵員が不足し、あぶれ者や野伏、近世の郷士らを大量に動員し、長柄(ながえ)槍を持たせて、槍衾(やりぶすま)をつくって突撃させたり、ゲリラ行動で後方を攪乱(かくらん)させるなど、足軽歩兵の集団攻撃が決勝要因の一つに数えられるまでになった。戦国時代に入ると戦闘法はいっそう多様化し、めまぐるしい変化を遂げたが、三大奇襲作戦といわれる16世紀前中期の北条氏康(うじやす)の川越(かわごえ)の夜戦、毛利元就(もうりもとなり)の厳島(いつくしま)の戦い、織田信長の桶狭間(おけはざま)の戦いは、それぞれ戦国大名としての地位を決定づける重要な一戦となった。

[渡邉一郎]

鉄砲の伝来

戦国時代の中心武器は、まず前代以来の槍が多用されたが、1543年(天文12)鉄砲が種子島(たねがしま)に伝来すると、諸大名は競ってその獲得に努め、1575年(天正3)織田信長の鉄砲足軽隊が長篠(ながしの)の設楽原(しだらがはら)の決戦で、武田勝頼(かつより)の勇猛な騎兵隊に壊滅的な打撃を与えるや、一躍戦場の花形兵器となった。この新兵器の普及は、軍隊組織と戦術および築城法の一大変革をもたらし、やがては信長、秀吉による天下統一事業を推進させる大きな力となった。戦国末期から近世初頭にかけて諸大名の家臣団の統制と組織化は一段と進み、士卒の区分が明確化し、行軍(押(おし))の隊伍(たいご)はそのまま戦場における陣立(じんだて)になるように編制された。こうして兵員および武器・兵糧の確保と隊伍の運用や駆け引きの巧拙が、全軍の勝敗に直結することとなり、戦時には領内あげての総動員体制がとられるようになった。

[渡邉一郎]

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普及版 字通 「合戦」の読み・字形・画数・意味

【合戦】かつせん

戦う。〔韓詩外伝、七〕、師を興して楚を攻む。人り、常に應行(前行)を爲し、五たび合戰して五たび陣を陷れ、を却(しりぞ)け、に大軍の首を取りて之れを獻ず。

字通「合」の項目を見る

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