伏屋素狄(読み)ふせや・そてき

朝日日本歴史人物事典 「伏屋素狄」の解説

伏屋素狄

没年:文化8.11.26(1812.1.10)
生年:延享4.12.1(1748.1.1)
江戸後期の蘭方医。号は琴坂,通称は万町権之助。河内国日置荘(堺市)の吉村正常の3男。和泉国南池田村万町(和泉市)の酒造業伏屋家の養子となり,分家を立てた。20歳ごろから約30年間漢方医として堺,次いで大坂で開業していたが,『解体新書』や『西説内科撰要』を読み,また大坂の蘭方医橋本宗吉や大矢尚斎 らとの交遊によって蘭方医学に転向した。実証的な西洋医学に開眼し,寛政12(1800)年大坂の葭島の刑場で尚斎や各務文献らと遺体解剖,また種々の動物で解剖や生理学的実験を行った。そこで得た知見などを記載した『和蘭医話』2冊を文化2(1805)年に刊行。この書ではカエルの心臓が摘出後もなお動くことや,ブタなどの腎臓の尿を生成する濾過作用を観察しており,その科学的実証主義は高く評価できる。<参考文献>内山孝一「明治前日本生理学史」(日本学士院『明治前日本医学史』3巻),中野操『大坂蘭学史話』

(中山沃)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伏屋素狄」の意味・わかりやすい解説

伏屋素狄
ふせやそてき
(1747―1811)

江戸後期の蘭方(らんぽう)医。河内(かわち)国(大阪府)の郷士の家に生まれ、和泉(いずみ)国の伏屋家の分家を継いだ。字(あざな)は正宜(せいぎ)、通称を万町権之進(まんちょうごんのしん)、琴坂(きんぱん)と号した。堺(さかい)で開業後、大坂に出て橋本宗吉(そうきち)と交遊し義兄弟となり、大坂蘭学の草創期にあって、宗吉を中心とする蘭学グループの一員として、腎(じん)機能の実験的実証的研究のほか、多くの実験生理学研究を行い、その成果を自著『和蘭医話(おらんだいわ)』(1803)にまとめた。

[宗田 一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伏屋素狄」の解説

伏屋素狄 ふせや-そてき

1748*-1812* 江戸時代中期-後期の医師。
延享4年12月1日生まれ。和泉(いずみ)(大阪府)の酒造業伏屋家の養子。はじめ堺,のち大坂で漢方医を開業。50歳ごろ橋本宗吉に西洋医学をまなび,大矢尚斎らと交遊。腎臓の尿生成機能を確認するなど実験生理学的研究をおこなった。文化8年11月26日死去。65歳。河内(かわち)(大阪府)出身。本姓は吉村。字(あざな)は正宜。通称は万町(まんちょう)権之進。号は琴坂(きんばん),耕文堂。著作に「和蘭医話」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伏屋素狄」の意味・わかりやすい解説

伏屋素狄
ふせやそてき

[生]延享4(1747).河内
[没]文化8(1811)
江戸時代中期の医師。通称万町権之進,字は正宜,号が琴阪。吉村家に生れ,伏屋家を継いだ。初め漢方を学び,50歳近くなってから橋本宗吉に蘭学を学んだ。解剖を実施し,日本の生理学の先駆となる業績を残し,著書『和蘭医話』にまとめた。これはやさしい問答体で西洋医説を解説しているが,特に腎臓が尿をろ過することを実験的に示した記述は,当時としてはきわめて卓越したものである。

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百科事典マイペディア 「伏屋素狄」の意味・わかりやすい解説

伏屋素狄【ふせやそてき】

江戸後期の医学者。名は正宜,通称は万町権之進。河内の人。初め堺,のち大坂で医業に従い,50歳近くから蘭学を学び,漢蘭折衷派としていくつかの独創的研究を行った。特に《和蘭医話》(1805年)では,腎動脈に墨汁を注入しても輸尿管から澄んだ水が出ることを実験的に確認し,尿生成の〈漉説(ろくせつ)〉を述べた。

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367日誕生日大事典 「伏屋素狄」の解説

伏屋素狄 (ふせやそてき)

生年月日:1747年12月1日
江戸時代中期;後期の蘭方医
1812年没

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