ムラービト朝(読み)むらーびとちょう(英語表記)al-Murābi

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムラービト朝」の意味・わかりやすい解説

ムラービト朝
むらーびとちょう
al-Murābi

西サハラのベルベル系遊牧民サンハージャ人の建てた王朝(1056~1147)。スペイン語でアルモラビデAlmorávideという。11世紀の初め、サンハージャ人の指導者ヤフヤーは、メッカ巡礼の帰途チュニジアカイラワーンマーリキー学派法学者アブー・イムラーンと会い、宗教的情熱に駆られてイスラムによる部族民の教化を決意した。アブー・イムラーンが紹介したモロッコの学者イブン・ヤーシーンを連れて故郷に戻ると、セネガル川の河口の小島にリバート(修道所)を建て、イスラムと厳格な禁欲主義によって修道士たち(ムラービトゥーンとよばれ、王朝名の起源)を養成した。彼らはベールをしていたのでムタラッスィムーン(ベールをした人々の意)ともよばれた。

 やがてイブン・ヤーシーンの権威下にジハード聖戦)を唱え、南下してガーナ王国を滅ぼし(1076)、サハラ以南アフリカのイスラム化への道を開いた。またイブン・ターシュフィーンに率いられた軍隊は北上し、モロッコとアルジェリアの西半分を征服し、首都マラケシュを建設した(1070ころ)。彼はさらにスペインに渡り(1086)、1094年までにスペイン南部アル・アンダルスの征服、支配に成功した。アル・アンダルス支配は、アル・アンダルスの進んだイスラム文化(とくに建築技術)を北アフリカに流入させた。アッバース朝のカリフ権承認、マーリキー学派法学の支持、および土着の異端的諸勢力を消滅させたことは、マグリブマグレブ)にスンニー派イスラムによる統一をもたらした。征服が完了し、宗教的情熱を喪失するとともに軍事力も衰え、新興のムワッヒド朝に滅ぼされた。

[私市正年]

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改訂新版 世界大百科事典 「ムラービト朝」の意味・わかりやすい解説

ムラービト朝 (ムラービトちょう)
al-Murābiṭ

西サハラに興ったベルベル王朝。1056-1147年。スペイン語ではアルモラビデAlmorávide。遊牧部族であるサンハージャ族の指導者ヤフヤーは,メッカ巡礼の帰途,宗教的情熱にかられ,モロッコの学者イブン・ヤーシーンを説教師として招いた。セネガル河口の小島に建てられたリバート(修道場)で彼の説教を聴いた修道士たち(ムラービトゥーンと呼ばれ,王朝名の起源である)は,やがてジハードを唱え,南下してガーナ王国を滅ぼし(1076),スーダンのイスラム化への道を開いた。イブン・ターシュフィーンIbn Tāshfīn(在位1061-1106)に率いられた軍隊は北上し,モロッコとアルジェリアの西半分を征服,首都マラケシュを建設し(1070ころ),さらにイベリア半島南部をも征服・支配した。イベリア半島の支配とともに,進んだ建築技術や学問がマグリブに流入した。国家の地方行政組織は未発達であり,経済的基礎は交易路の支配にあった。アッバース朝のカリフ権を認めてマーリク派の法学を支持したこと,および土着の異端的諸勢力を消滅させたことは,マグリブにスンナ派による統一をもたらした。征服が完了し,宗教的情熱を喪失するとともに軍事力も衰え,新興のムワッヒド朝に滅ぼされた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムラービト朝」の意味・わかりやすい解説

ムラービト朝
ムラービトちょう
al-Murābit

ベルベル人による最初のイスラム王朝 (1056~1147) 。北アフリカとイベリア半島を支配。首都はマラケシュ (マルラーケシュ) 。ヨーロッパではアルモラビド朝 Almoravidsの名で知られている。サハラ砂漠に遊牧していたラムトゥーナ族を中核とする宗教戦士集団によって建国された。第2代君主ユースフ (在位 1061~1106) は,1062年マラケシュを建設してここに首府を定め,アッバース朝カリフの宗主権を認めながら,北方へ領土を拡張した。メクネス,フェス,タンジール,セウタを占領し,91年にはスペインのアッバード朝を滅ぼしてイベリア半島南部を支配下に収めた。ユースフの没後,王朝は衰退の傾向をみせはじめ,1147年には首都マラケシュはムワッヒド朝の手に落ちたが,スペインに逃れた一族は 13世紀初めまで余命を保った。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ムラービト朝」の解説

ムラービト朝(ムラービトちょう)
Murābiṭ

1056/61~1147

西サハラの遊牧ベルベル人が熱狂的な宗教運動をもとに,モロッコに建設したイスラーム王朝。マラケシュを首都に,マグリブアンダルスを支配したので,両地域の文化交流が促進された。法学的にはマーリク派を奉じた。1147年ムワッヒド朝に滅ぼされた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ムラービト朝」の解説

ムラービト朝
ムラービトちょう
al- Murābitīn

1056〜1147
サハラ地方からおこったベルベル人のイスラーム王朝
ガーナ王国を滅ぼし,マラケシュを首都として建国。その後イベリア半島に進出し,キリスト教徒のレオン王国軍を破ってスペインの南半分を確保した。1146年新たにモロッコに成立したムワッヒド朝と戦って敗れ,翌年消滅した。

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世界大百科事典(旧版)内のムラービト朝の言及

【マラブー】より

…イスラムの浸透に伴い,11世紀ころになると,リバートは内陸部にも建てられるようになったが,その役割は軍事的というよりも,宗教的性格を強めていった。西アフリカに興ったムラービト朝は,そのようなリバートの修道士が建てた王朝である。13~14世紀ころからのイスラム神秘主義の発展に伴い,リバートはスーフィーの修行場であるザーウィヤを意味するようになり,マラブーは聖者を指すようになった。…

※「ムラービト朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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