ペシャーワル(英語表記)Peshāwar

改訂新版 世界大百科事典 「ペシャーワル」の意味・わかりやすい解説

ペシャーワル
Peshāwar

パキスタン北西端,北西辺境州州都。人口98万2816(1998)。地名は〈国境の町〉の意。西方約15kmに中央アジアとインド亜大陸とを結ぶハイバル峠があり,軍事・交易上の要地として栄えてきた。20世紀初めまでは,アフガニスタンカーブルだけでなく,現ウズベキスタン領のブハラサマルカンドからも隊商が訪れ,西方からの乾果,サフラン,生糸,じゅうたん,金糸,宝石,東方からの穀物,砂糖,塩,茶,香料,インジゴなどがここで交易された。旧市内に残るキッサ・ハワーニー・バーザールは当時の雰囲気を今に伝えている。周辺はカーブル川に潤されるペシャーワル谷の肥沃な平原でガンダーラ地方と呼ばれる。そこからの小麦,タバコ,サトウキビ,果物を集散するとともに,製糖,タバコ,製粉,缶詰などの農産加工のほか,紡績家具,薬品などの諸工業が立地する。また絹,綿,羊毛の手織物,ナイフ,皮革製品,銅器などの手工業は名高い。

 古名はプルシャプラPuruṣapuraといい,その名は前8世紀からガンダーラ地方の中心都市として現れる。2世紀のクシャーナ朝のカニシカ王時代にはその首都となり,ガンダーラ美術が隆盛した。市の南東隅にあるシャー・ジー・キーデリーの大仏塔のほか,周辺には多くの仏教遺跡が残る。7世紀には玄奘が訪れ,布路沙布邏と表記するとともに大都城の存在と仏教の衰退について述べている。10世紀以後はアフガン系の諸ムスリム王権の下におかれた。ムガル帝国下では,1552年にフマーユーンにより城塞がつくられ,つづいてアクバルにより町が再建された。このとき彼により現在の地名に改められた。1739年ペルシアのナーディル・シャーのインド侵攻以後,アフガニスタンのドゥッラーニー朝が支配した。1818年にシク王国が同朝から奪取したとき町は破壊され,このとき再建されたのが現在の旧市である。49年にイギリス領となり,西方に広大なカントンメント(兵営地区)がつくられ,帝政ロシアへの前線基地となった。
執筆者:

1901年に開設されたペシャーワル博物館は,ガンダーラ彫刻の最も充実したコレクションで知られている。タフティバヒー,サハリバハロール,ジャマールガリーその他の仏教遺跡から出土した石彫を主とする彫刻,刻文,貨幣,工芸品などの膨大な所蔵品を誇り,ことにシャー・ジー・キー・デリー出土のカニシカ王奉献の銅製舎利容器,サハリバハロール出土の像高264cmの仏立像,マルダーン将校集会所旧蔵の仏伝図浮彫などが著名である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ペシャーワル」の意味・わかりやすい解説

ペシャーワル

パキスタン北部,北西辺境州の州都。アフガニスタン国境のハイバル峠の東方約15kmにあり,古来中央アジアとインド世界を結ぶ交通・商業の要地。銃砲類,紙巻タバコ,家具,絹,綿,毛織物など手工芸品を特産。2世紀クシャーナ朝の都となり,ガンダーラ美術が栄えた。博物館,大学(1950年創立)がある。158万人(2012)。→ガンダーラ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペシャーワル」の解説

ペシャーワル
Peshawar

パキスタン西部の都市。ガンダーラ地方の中心地で,古くはプルシャプラといわれた。前5世紀アケメネス朝の支配に入り,特にギリシア人諸王,クシャーン朝のときに最も栄え,政治,商業,仏教の一中心地であった。以後西北インドの門戸の要衝として諸勢力の押えるところであったが,1849年にイギリス領となった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android