ノルマン朝(読み)ノルマンちょう(英語表記)House of Normandy

精選版 日本国語大辞典 「ノルマン朝」の意味・読み・例文・類語

ノルマン‐ちょう ‥テウ【ノルマン朝】

(ノルマンはNorman) 一〇六六年ノルマン‐コンクェストによりウィリアム一世の開いたイギリス王朝。イギリス封建制の確立期。一一五四年アンジュー伯ヘンリー二世が即位してプランタジネット朝を開くまで存続

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「ノルマン朝」の意味・読み・例文・類語

ノルマン‐ちょう〔‐テウ〕【ノルマン朝】

イングランドの王朝。1066年、ノルマンディー公ウィリアム1世がイングランドを征服して成立。1154年、4代で断絶し、プランタジネット朝に代わった。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ノルマン朝」の意味・わかりやすい解説

ノルマン朝 (ノルマンちょう)
House of Normandy

1066年から1154年の間,イングランドを支配した王朝。ノルマン・コンクエストによってイングランドを征服して王となったウィリアム1世(在位1066-87)は,封建制度を導入して,国土を臣下に分与する代りに軍役を奉仕させ,イングランド古来のシャイア(州)・ハンドレッド(郡)制を利用して支配したほか,全国の土地所有者をソールズベリーの野に集めて忠誠を誓わせ,徴税のための土地台帳(《ドゥームズデー・ブック》)を作成させるなど,集権的封建国家基礎をつくった。次のウィリアム2世(在位1087-1100)は,長兄のノルマンディー公ロベールと紛争を引き起こし,カンタベリー大司教アンセルムスと対立するなど失政が多かったため,貴族の不満が高まり,狩猟中無名の者の矢に当たって横死した。ついで即位した弟のヘンリー1世(在位1100-35)は,即位にあたって戴冠憲章を発布して貴族の不満を和らげ,ロベールを破ってノルマンディー公領を併せ,種々の改革を行って国内はよく治まった。しかし彼の息子ウィリアムが1120年不慮の海難で水死したため,ヘンリー1世の死後王位をめぐる闘争が生じた。ヘンリー1世は生前その娘の,神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の寡婦でフランスのアンジュー伯ジョフロアと再婚していたマティルダを後継者に定めていたが,王の死後,彼の甥でフランスのブロア伯の弟スティーブンが一部の貴族とロンドン市民の支持を得て,いち早く即位(存位1135-54)した。そのため王位を主張するマティルダとの間に18年にわたる大内乱が生じた。貴族は2派に分かれて戦い,国内は混乱を極め,王権は極度に弱体化した。1153年,スティーブンの王位を認める代りに,その死後はマティルダの子アンリが相続することで和約が成立し,翌54年スティーブンの死にともないアンリがヘンリー2世として即位,新王家プランタジネット朝を開き,ノルマン朝の支配は終わった。ノルマン朝の成立によって,イングランドの支配層はアングロ・サクソン人からノルマン人へと全面的に交替し,以後イングランドの歴史は大陸とくにフランスとの交渉・対立から大きな影響を受ける。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ノルマン朝」の意味・わかりやすい解説

ノルマン朝
ノルマンちょう
Norman Dynasty

イギリスの王朝 (1066~1154) 。ノルマン・コンクェストの結果,ノルマンディー公ウィリアムがウィリアム1世 (在位 1066~87) として即位した。これがノルマン朝の創始である。ウィリアム1世は大陸の封建制度を導入してイングランドを支配したが,その死後長男ロベールがノルマンディー公位を,次男ウィリアム2世 (在位 87~1100) がイングランド王位を相続。この両者の間に争いが生じたが,ウィリアム2世の死後イングランド王となった弟のヘンリー1世 (在位 1100~35) は,兄のロベールを破ってノルマンディー公国を併合し,国制の整備に努めた。ヘンリー1世が男子の嫡子なくして死ぬと,その妹アデラの子のスティーブン (在位 35~54) が王位を称したが,ヘンリー1世の娘で当時フランスのアンジュー伯に嫁していたマティルダが王位を要求し,両者の間に戦いが始った。以後約 20年間イングランドは内乱の状態を続け,1154年スチーブンが死んで,マティルダの子がヘンリー2世として即位し,プランタジネット朝 (アンジュー朝) を開いたので,ノルマン朝の支配は終った。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ノルマン朝」の意味・わかりやすい解説

ノルマン朝【ノルマンちょう】

中世イングランドの王朝(1066年―1154年)。ノルマン・コンクエストによるノルマンディー公ウィリアム1世の即位に始まり,同2世を経てヘンリー1世の時に集権的封建制の基礎が固まった。次代スティーブンの時に内乱が起こり,その死後ヘンリー2世が即位してプランタジネット朝を開いた。
→関連項目イギリスウィリアム[2世]スティーブン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ノルマン朝」の意味・わかりやすい解説

ノルマン朝
のるまんちょう

ノルマンディー公ウィリアム(公としては2世、イギリス王としては1世、征服王)のイングランド征服(ノルマン・コンクェスト)によって開かれたイギリス王朝(1066~1154)。ウィリアム1世は大陸の封建制度を導入し、サクソン行政組織を利用して集権的な封建制度を確立した。その三男ウィリアム2世(在位1087~1100)、ついで四男ヘンリー1世(在位1100~1135)が後を継ぐが、ヘンリー1世は中央政庁を整備し、全国に巡回裁判官を派遣して王権を強化した。彼は王子ウィリアムを亡くしたため、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁しその死後アンジュー伯ジェフリーGeoffrey(ジョフロア。1113―1151)と再婚していた娘のマティルダMatilda(マティルド。1102―1167)を後継者としたが、貴族らは王妹アデラの子ブローニュ伯スティーブンStephen(1097?―1154、在位1135~1154)を王に選んだ。そのためマティルダは王位を要求して十数年続く内乱を起こしたが、この間封建貴族勢力は伸展した。1154年スティーブン王の死後、マティルダの子アンジュー伯ヘンリー(2世)が即位してプランタジネット朝を開き、ノルマン朝は終わった。

[富沢霊岸 2022年12月12日]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ノルマン朝」の解説

ノルマン朝(ノルマンちょう)
Normans

1066~1154

ノルマン人の征服によりウィリアム1世が開いたイングランドの王朝。王は封建制をもって王権を強化し,次のウィリアム2世をへてヘンリ1世は集権的封建制の基礎を固めた。しかし続くスティーヴン王のとき,王位争いの内乱が約20年継続し,結局1154年ヘンリ2世が即位してプランタジネット朝を開いた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ノルマン朝」の解説

ノルマン朝
ノルマンちょう
Norman

1066〜1154
ノルマン−コンクェストにより,ウィリアム1世(征服王)がイギリスに開いた王朝
ウィリアム1世は,ドゥームズデー−ブックを作製して,中央集権的な封建国家の基礎をつくり,その後,ウィリアム2世・ヘンリ1世と続いて封建国家が完成した。1135年ヘンリ1世の死後,王位の継承争いが起こったが,1154年ヘンリ2世が即位してプランタジネット朝を開いたため,ノルマン朝は終わった。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のノルマン朝の言及

【イギリス】より

…クヌット2世はイングランド王だけでなく,やがてデンマーク王,ノルウェー王をも兼ねて,北海を内海とする一大帝国を樹立したが,それも約20年後彼の死とともに瓦解し,イングランドにはまもなくエドワード懺悔王が即位して,ウェセックス王家が復活した。しかし彼には嗣子がなかったため,1066年その死後王位をめぐる闘争が生じ,北フランスのノルマンディー公ギヨームが麾下の騎士を率いて侵入,イングランドを征服,ウィリアム1世(征服王)として即位してノルマン朝を開いた。イギリス史上これを〈ノルマン・コンクエスト〉という。…

※「ノルマン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android