翻訳|Toledo
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
スペイン中央部,新カスティリャ地方の同名県の県都。人口6万1813(1982)。三方をイベリア半島最長のタホ川に守られた小高い丘の上に立ち,その起源は先史時代にさかのぼる。古称トレトゥムToletum。以来今日まで幾度かイベリア史の主要舞台となり,このために町全体がさながら歴史博物館といっても過言ではない。ちなみに市内の建築物の外観は今日いっさいの改造が厳禁されている。
トレドが歴史に大きく浮かび上がってくるのはローマ時代末期で,400年にイベリアのキリスト教会がその第3回司教会議をここで開催したときからである。その後,半島の支配権がローマからゲルマン人の一派西ゴート(ビシゴート)族に移ると,その王アタナギルドAtanagildo(在位554-567)は560年に宮廷をトレドに定めた。こうして711年の西ゴート王国崩壊までトレドはイベリア全土の政治の中心地となり,聖俗両界にまたがって政策の審議決定の場となった教会会議も17回ここで開かれた。これに伴いトレド司教座の権威は7世紀に入るとしだいに他を抜いて高まり,首都大司教座を経てやがてイベリア全土の首座大司教座として認められるようになった。トレド大司教の発言が現在でもスペイン世論の中で重きをなすのはこのためである。
711年に始まるイスラム期ではアル・アンダルス(イスラム・スペイン。アンダルス)の首都が南部のコルドバに置かれ,トレドは東のサラゴサおよび西のメリダと並んで,まもなく興るキリスト教スペインに対する国境防衛の拠点となった。しかし,住民の大半は従来のそれと変りはなく,彼らはイスラム教徒となった後もコルドバからの支配を喜ばず,機会あるごとに反抗を試みた。このためにトレドはときとして歴史に名を残す惨劇の舞台と化した。1031年の後ウマイヤ朝崩壊後アル・アンダルスが小国群に分裂すると,トレドはそのひとつの首都となった。現在の大聖堂と王城(アルカーサル)は,外観こそ異なるものの,イスラム期に同じ場所にあったはずの同種の建物の規模をほうふつとさせ,ソコドベール広場は同時代の活発な経済活動をしのばせる。またアル・アンダルスの他の都市と同じく,トレドにも有力なユダヤ教徒の社会(コロニー)があった。彼らはやがて後述の翻訳事業でかけがえのない役割を果たす一方,二つのシナゴーグに紛うかたない自分たちの足跡を残していった。
1085年,カスティリャ王アルフォンソ6世の軍勢に包囲されたトレドは,もはや抵抗がむだなことを悟って無血開城した。しかし,アル・アンダルスの他の王たちはこの事態に危機感を深め,北アフリカの同胞に来援を求めた(ムラービト朝)。トレドをめぐる激しい攻防戦はしばらくの間繰り返された。キリスト教徒軍は幾度も大敗を喫し,アルフォンソ王はたった一人の王子を戦場に失った。しかし,それでもトレドは死守され,二度とイスラム教徒の手には戻らなかった。
戦線が南へ遠のき一応の平和が確保されると,トレドはにわかに広く西ヨーロッパの知識人の強い関心の的となった。アル・アンダルス文化の高い水準は早くから知られていたが,これを支える学術書が多数トレドに残されていたのである。こうして12世紀前半から13世紀末にかけて,〈トレド翻訳学校〉と通称される画期的な知的作業がイスラム教徒,ユダヤ教徒,キリスト教徒の各学者たちの協同によって進められ,ヘレニズムの遺産とこれに触発されたイスラム教徒学者の研鑽の成果がアラビア語からラテン語へ翻訳された。アリストテレスの哲学,ユークリッドの数学,プトレマイオスの天文学,ヒッポクラテスの医学などが,この時ピレネーを越えて西ヨーロッパに流布した。それは,このときをもって中世西ヨーロッパの哲学史と科学史は前後に二分されるといわれるほど,後の西ヨーロッパ文化の展開にとって決定的なできごとであった。ただ皮肉にも,当のイベリア諸国には,この翻訳事業の恩恵に浴する文化的受皿が十分に用意されていなかった。
中世末期から近代初期にかけてトレドはブルゴスやアビラやセゴビアなどと並んでカスティリャを代表する都市であった。議会(コルテス)の場ともなれば,当時まだ決まった首都をもっていなかった同国宮廷の一時的な逗留地ともなった。商業ブルジョアジーの発展も順調で,彼らの先駆的政治意識のほどは,スペインの事情に暗いカルロス1世(カール5世)の即位直後に勃発したコムネロスの反乱におけるトレドの指導的役割にうかがえる。
1561年,フェリベ2世によってそれまでトレドにあった宮廷はマドリードに移され,二度と戻ってはこなかった。当時のヨーロッパの最強国スペインの首都となったマドリードが急速な発展を遂げる一方で,トレドは一地方都市に化していった。しかし,77年ころ一人の外国人画家がこの都市に住みついた。エル・グレコである。クレタ島生れの彼の中にある神秘主義は,16世紀カスティリャ社会の高揚した宗教感情とトレドにおいて深く結びつき,いまに残る数多くの傑作として結実した。今日トレドはグレコの名と一体をなし,将来もグレコとともに世界中の人々に記憶されるであろう。
執筆者:小林 一宏
イスラム時代の最も重要な遺構は,1000年ころ完成したモスク,ビーブ・マルドンで,12世紀に教会堂(エル・クリスト・デ・ラ・ルス)に転用された。現存する数少ない中部スペインのモスク建築の傑作の一つである。規模が小さく,元来パビリオンであったと思われる。北側の石造のファサードを除き,すべて煉瓦造。現存するシナゴーグは,サンタ・マリア・ラ・ブランカとエル・トランシトで,共にムデーハル様式による。前者は12~13世紀に建造され,14世紀に教会堂に転用された。タイル(アスレホ)装飾,ペルシア風柱頭,馬蹄形アーチなどにマグリブのムワッヒド(アルモアデ)朝の文化や東方イスラム建築の影響が認められる。後者は1356年に建造され,1492年に教会堂に転用され,現在,博物館としてスペイン系ユダヤ人セファルディム関係の資料を展示する。そのほか城門プエルタ・ビエハ・デ・ビサグラ(11世紀),ローマ時代起源で1000年ころと15世紀に再建されたムデーハル様式のアルカンタラ橋が残る。なお,西ゴート王国時代の遺例として,エル・サルバドル教会に柱が見られる。
13~15世紀建立の大聖堂はゴシック様式によるが,幅が広くてあまり高くなく,また多葉形アーチやからみ合うアーチの使用など,スペイン色が濃い。同大聖堂には,西正面や翼廊(トランセプト)玄関口の彫刻,ステンド・グラス,祈禱席(A. ベルゲーテ他の木彫)と見るべきものが多い。ナルシーソ・トメー作の大理石と青銅製のバロック祭壇(トランスパレンテ)は背後からの採光にマリアや天使が浮かび上がり,幻想的かつ劇的な効果をもつ。市内に〈グレコの家〉があり,彼の大作《オルガス伯爵の埋葬》(1586-88)はサント・トメー教会に所蔵される。博物館としては考古学博物館(1504-14年建造のサンタ・クルス施療院内。イスラム関係の史料は14世紀建造のタレル・デル・モロ宮殿に展示),レルマ公博物館(タピスリー,家具等を所蔵)がある。
執筆者:五十嵐 ミドリ+杉村 棟
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