セルマ大行進(読み)セルマだいこうしん(英語表記)Selma March

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セルマ大行進」の意味・わかりやすい解説

セルマ大行進
セルマだいこうしん
Selma March

1965年3月21~25日,アメリカ合衆国アフリカ系アメリカ人選挙権を求める市民が,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の指導のもと,アラバマ州セルマから州都モントゴメリーまで行なった大行進。その前に阻止された 2度の行進(3月7,9日)を含む一連の出来事は,1965年投票権法成立のきっかけとなり,公民権運動においてきわめて重要な意味をもつにいたった。
1963年,学生非暴力調整委員会 SNCCはセルマを中心にアフリカ系アメリカ人の有権者登録を進めようとしていた。当時,登録所は月に 2日しか開いておらず,登録時には登録を阻止するため恣意的な識字試験が課せられ,セルマのアフリカ系アメリカ人有権者の登録率はわずか 1~2%にすぎなかった。1964年に公民権法が成立したことをうけ,SNCCが登録運動を強化すると,これを弾圧しようと地元警察はしだいに暴力性を増していった。1965年2月18日,セルマ近郊のマリオンで行なわれた抗議集会で,アフリカ系青年ジミー・リー・ジャクソンが州警察官に発砲され死亡した。公民権運動の指導者たちはこれに抗議して州都モントゴメリーへの行進を呼びかけ,3月7日の日曜日の朝,市民ら約 600人が非暴力を貫くことを確認してセルマを出発した。アラバマ川にかかるエドマンド・ペタス橋に達すると,橋の東側では郡保安官代理や州騎兵隊,州警察官数十人が待ち構えていた。突如催涙ガスが打ち込まれ,デモ隊は警棒やむちで殴打されるなどの暴力を受け,50人以上が負傷して病院に運ばれた。この残忍な暴力行為の映像はテレビで放映され,視聴者に衝撃を与えた。この日は「血の日曜日」と呼ばれるようになり,その後 48時間の間に,全米 80都市で行進を支持するデモが行なわれた。
キング牧師は,良識のあるアメリカ国民はセルマに行って抗議に参加し,行進を再開するよう呼びかけた。3月9日,キング牧師を先頭に 2000人以上が橋に向かって行進した。しかし州警察官が止まるよう命じると,キング牧師は連邦裁判所によるデモ禁止命令に違反することを回避し,人々とともに祈りを捧げて引き返した。3月15日,リンドン・B.ジョンソン大統領は世論の高まりをうけて,連邦議会合同会議で投票の権利について演説し,のちの投票権法となる法案の成立を訴えた。この演説の 2日後に連邦裁判所がデモ禁止令を解除すると,3月21日,キング牧師を先頭にした数千人のデモ隊が,セルマからエドマンド・ペタス橋を渡ってモントゴメリーへと向かった。途中,参加者は増え続け,最終的に 2万5000人ほどにふくらんだ行進は,5日をかけて約 80kmの道のりを進み,3月25日にモントゴメリーに到達した。キング牧師はそこで群衆に向かって "How Long, Not Long"のフレーズで知られる有名な演説を行ない,リパブリック賛歌朗唱で締めくくった。
行進から約 5ヵ月後の 1965年8月6日,投票権法が成立した。これにより識字試験が廃止され,それまで投票者の適性判断に試験を用いていた司法管轄区域における投票法や手続きの修正には国の承認が必要であることが規定された。

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