キリスト教徒迫害(読み)キリストきょうとはくがい

改訂新版 世界大百科事典 「キリスト教徒迫害」の意味・わかりやすい解説

キリスト教徒迫害 (キリストきょうとはくがい)

キリスト教は広く世界に伝播してゆくに際して,その非妥協性のゆえに,異なる宗教と習俗をもつ諸社会・国家による迫害をうけた。ここではキリスト教史上もっともはげしいといわれるローマ帝国下初期キリスト教徒がうけた迫害についてのべる。

 原始キリスト教団が成立して以来,教徒はユダヤ教当局やギリシア都市の民衆などから迫害をうけた。ステパノ殉教や改宗前のパウロのキリスト教徒迫害などがすでに《使徒行伝》にしるされている。この時期ローマ帝国の地方総督はユダヤ教内の分派抗争的な,または熱狂的リンチによる迫害をむしろ好まず,改宗後のパウロなどを保護する者もいた。しかし特異な共同体をつくり,他の神々や偶像を排し,固有の生活を守ろうとするキリスト教徒は,伝統的な宗教と風習に根ざすギリシア・ローマ社会の人々から無神論者として軽侮の念をもって見られ,しかもキリスト教徒がユダヤ教徒と異なり,あまねくユダヤ民族以外にも伝道を行ったことは警戒の念をかきたてた。とくにキリスト教の礼典である聖餐,教徒の交わりが〈人肉食い〉〈近親相姦〉との中傷をうけることになり,彼らを反社会的ないかがわしい集団とする一般の風潮ができあがっていった。64年に生じたローマ市大火でキリスト教徒が放火犯として追及され,数千人(おそらく誇張であろう)が処刑されたという,タキトゥス《年代記》が伝えるところの〈ネロの迫害〉の背景には,このようなキリスト教徒への偏見があり,〈人類敵視〉の罪名がかぶせられたのである。しかしこの迫害はあくまで放火罪が処罰対象であり,一時的なものにとどまり,しかもローマだけのことで,キリスト教の存在そのものを対象とした迫害ではなかった。けれども伝承ではペテロ,パウロなどがこのとき殉教したとされている。

 以後1世紀末ドミティアヌスの治世になると,小アジアで大きな迫害が行われたらしい。この時期に書かれた《ヨハネの黙示録》が,怪物になぞらえられたローマ帝国にはげしい憎悪を示しているのはそのためだといわれるが,具体的な迫害の様相は不明である。その後もユダヤ教徒や都市大衆が宗教的熱狂にかられたり,天災による不満のはけ口をキリスト教徒にもとめたりして,地域的な迫害は生じたが,地方当局やローマ皇帝が法によって積極的に教徒を迫害することはなかった。2世紀はじめ小アジアの総督プリニウス(小)とトラヤヌス帝とのキリスト教徒に関する往復書簡では,匿名による教徒告発や当局による教徒探索が禁じられている。しかしキリスト教徒であること自体は処罰対象とされており,正式な告発をうけた教徒は神々と皇帝の像を礼拝するよう強制され,これに屈服すれば釈放され,拒めば処刑された。

 キリスト教徒迫害の法的根拠については長く論争されたが,特別の法が定められたのではなく,上述のごときキリスト教への偏見に立つ通念を背景として,一般人の側から告発がもち出され,地方当局が状況に応じて対処するというのが3世紀初めまでの迫害の実態であったのであろう。このためキリスト教徒の側は新約聖書正典を確立し,教会組織をも強化することができた。教父たちの多くはキリスト教が帝国と矛盾しないことを説いたが,タティアノステルトゥリアヌスのように迫害の不当性を論破する護教家も出た。ユスティノス,ポリュカルポスら,教父の中には殉教する者もいたが,殉教者の記録は教徒間にもてはやされるに至り,〈キリスト者の血は種子となり〉教徒数は着実に増していった。

 3世紀,帝国社会の不安が増すとともに,皇帝は権力絶対化,帝国宗教の統一をめざした。これを受け入れないキリスト教徒は,神々や皇帝への礼拝・祭儀に加わらない場合,デキウス,ウァレリアヌスなどの皇帝によって全帝国的規模で迫害をこうむることとなった。しかしそれも一時的で,迫害がすぎ去ると屈服した教徒も教会に復帰し,3世紀末には皇帝の宮廷や軍隊にまで教徒は進出した。3世紀末に帝国を再建したディオクレティアヌスの時代,まず軍隊で熱狂的なキリスト教徒が殉教する事例が相つぎ,303年全帝国にキリスト教徒迫害を命ずる勅令が発布された。この大迫害は小アジア,シリア,エジプト,アフリカでとくにはげしく,教会は破壊され聖書が没収され,祭儀強制も行われて多数の聖職者や熱狂的な教徒が殉教したり,鉱山などで労役に投ぜられたりした。しかし帝国西方ではさほどはげしい迫害はみられず,とくに西方にマクセンティウス,コンスタンティヌスが立って寛容策をうち出して,迫害は東西の政治抗争の具となった。迫害帝ガレリウスは311年に寛容令を発してキリスト教徒の存在をみとめ,その後の抗争に勝ち残ったコンスタンティヌスとリキニウスが312年のミラノ会談の合意に基づいて313年に東方に勅令(ミラノ勅令)を発して宗教自由の原則をみとめ,キリスト教会への没収財産返還を命じた結果,ローマ帝国の迫害政策は終りを告げた。以後リキニウスや〈背教者〉ユリアヌスによる短期間の迫害は行われたが,キリスト教徒は皇帝の庇護を受け,国家宗教への道を歩んでゆくのである。

 キリスト教史上には,このほかササン朝ペルシア,アフリカのバンダル王国,オスマン・トルコにおいても迫害は生じ,中国・朝鮮でも一時的にみられた。日本でも豊臣・徳川時代のキリシタン弾圧がローマ帝国に匹敵する激しさで行われ,明治以後第2次大戦までの間もキリスト教徒の天皇現人神礼拝の拒否,非戦論などを理由に圧迫が加えられることが少なくなかった。またソビエト連邦など社会主義諸国での教徒迫害も一時報じられたが,近年はきかれなくなっている。
キリシタン →キリスト教
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のキリスト教徒迫害の言及

【ディオクレティアヌス】より

…一方,キリスト教徒は軍隊や宮廷内にも増加しており,軍役や異教の祭儀を拒否する事件が多くなっていた。このような状況の中でディオクレティアヌスは統治の終り近くになって,303年全帝国規模でキリスト教徒迫害を命じるにいたった。キリスト教を特に敵視していた副帝ガレリウスの圧力によったとする史料もあるが,ディオクレティアヌスがローマ的伝統護持と宗教統一のために主導権をとって開始したのであろう。…

※「キリスト教徒迫害」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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