イギリス史(読み)いぎりすし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス史」の意味・わかりやすい解説

イギリス史
いぎりすし

イギリス史の特色と時代区分

世界史のうえでイギリスは、経済、政治を中心に近代化の先頭を切って歩んだ最先進国というイメージでとらえられてきた。しかしこの把握が妥当するのは、17世紀末以降20世紀初頭までのきわめて限られた時期のことにすぎない。この時期以前のイギリスは、ユーラシア大陸の辺境に位置した後進的な存在にすぎなかった。地中海周辺でギリシア、ローマの古代文明が華を咲かせていた時代のイギリスには、未開のケルト系諸部族連合があったにすぎず、やがて紀元後1世紀にはローマ帝国に属州として組み入れられた。ここまでが古代史である。

 しかし、ローマ化は社会の深部には達せず、4世紀末の民族移動の開始とともに、アングロ・サクソン諸部族国家の併立から統一への動きとなり、さらに11世紀のノルマン・コンクェストによって本格的な封建制社会が成立する。イギリス中世史は、アングロ・サクソン人と征服者との融合の過程であるとともに、この島国が大陸と一体となった時代であった。ことに12世紀のプランタジネット朝の成立によってイギリスは、フランスに展開した「アンジュー帝国」の属領たる観を呈した。フランスからの解放の動きが百年戦争であり、並行して国民国家の形成が進み、閉鎖的な島国にとどまったチューダー朝に絶対主義の時代を迎える。以上の中世史から近代への移行期に位置づけられるのが、エリザベス1世の治世とスチュアート朝である。

 17世紀に戦われた二つの革命、すなわちピューリタン革命と名誉革命とを転機として、イギリスと大陸諸国との関係は逆転する。植民地帝国の形成、産業革命の遂行、議会政治の確立など、イギリスはそれまでの大陸諸国に「学ぶ」立場から、「学ばれる」模範としての存在へと変貌(へんぼう)を遂げた。「世界の工場」としての繁栄を謳歌(おうか)した19世紀のビクトリア時代が、イギリスの歴史の絶頂であったといえよう。しかし、20世紀に入って、二つの世界大戦を経験したイギリスには、もはや昔日のおもかげはない。

[今井 宏]

先史時代とケルト・ローマ時代

先史時代

旧石器時代のイギリスは、ヨーロッパ大陸と陸続きであり、南方の温暖な地方からきた旧石器時代人が、打製石器を使い、狩猟、漁労を行っていた。その後、北海の地盤が沈下してイギリス海峡が陥没し、イギリスは島となったが、紀元前3000年ごろ大陸から農耕文化をもった新石器時代人が渡来して、水はけのよい白亜層丘陵に定住し、その丘陵が集合するソールズベリー平野を中心に集落生活を営み、農業、牧畜を行った。なかでもイベリア半島から南西イギリスに渡来した人々が、前2000年ごろまでに、高度な社会組織と独特な宗教生活をうかがわせる巨石文化を伝えたことが注目される。その後、前1800年ごろビーカー形の陶器を用いたいわゆるビーカー人が大陸から渡来して、青銅器文明を持ち込み、ソールズベリー平野で先住民族の巨石文化と融合した。この地の有名なストーンヘンジ(環状列石の一種)はその遺跡である。

[富沢霊岸]

ケルト・ローマ時代のブリタニア

前1000年ごろから大陸ではケルト人が鉄器文明を生み出したが、前600年ごろと前400年ごろにケルト人がイギリスにも渡来して、優秀な陶器や青銅器、鉄器を伝えた。彼らは森林の開墾や農耕技術を発展させ、そのため人口も増加したが、また丘陵上に城塞(じょうさい)を築き、鉄製の武器を用いた。ケルト人渡来の最後の波は前75年ごろのベルガエ人で、彼らはすでにローマ文明と接触しており、南イギリスにベルガエ人の国家を建設して貨幣を使い始めた。ガリア遠征中のローマの将軍カエサルが、前55年、前54年の2回にわたりイギリスのベルガエ人討伐を企てたが、所期の目的を果たさなかった。このころベルガエ人は、ローマ人によりブリタニ人Britanni(英語名ブリトン人Britons)とよばれていたところから、イギリスはブリタニアBritanniaとよばれるようになった。

 ローマの本格的な支配は、紀元後43年クラウディウス1世により行われ、ブリタニアはローマのプロウィンキア(属州)となった。78年総督となったアグリコラによってブリタニア経営が安定し、地租や貢納を徴収する組織も確立した。122~127年にタイン川河畔にハドリアヌス帝の長城が築かれ、北辺の防衛と関税の徴発にあたったが、142~143年にさらに北方にアントニヌス・ピウス帝の長城が築かれて防衛を強化した。その間、各地にローマ風の都市が建設され、軍事、産業用の道路も敷かれたが、ローマ文明はケルト人、ブリトン人の生活に深く浸透しえず、4世紀に入るとローマはゲルマン民族の侵入に苦しみ、ブリタニアの防衛も手薄になり、5世紀初めにはローマ軍は引き揚げた。

[富沢霊岸]

アングロ・サクソン時代

アングロ・サクソン人の移住

前述のように、ブリタニアの島は、ローマの本格的な支配下にあった期間が比較的短く、5世紀には各地にケルト的ブリトン文明が復活した。5、6世紀にアングル人、サクソン人、ジュート人などの諸部族が到来したのはそのようなブリタニアであった。ブリタニア移住前の彼らは、ユトランド半島基部からラインラントにかけてすでに混住していたが、5世紀後半からイングランド南東部の海岸地方に小規模な混成の移住団を構成して到来し、とくにウォッシュ湾からは内陸深く侵入するものもあった。そして5世紀末には各地に小さな部族国家を建設したが、そのおもなものをあげると、449年にヘンギストHengist(Hengest)とホルサHorsaに率いられたジュート人を主とした移住団がその後ヘンギスト王のもとに南東イングランドに建設したケント王国(455ころ)、エレAelleに率いられて南イングランドに建設されたサセックス王国(477ころ)、またセルディック(チェルディッチ)Cerdic(534没)とその子キンリックCynric(560没)に率いられて南西イングランドに建設されたウェセックス王国(519)があり、ウォッシュ湾から侵入して定住したものとしては、ウォーデンWoden神の後裔(こうえい)と称するイーチェルIcel王を始祖とするマーシア王国(5世紀後半)、エレAelle(エリAelli)王(588没)を始祖としてヨークシャー辺に建設されたデイラ王国(560ころ)、さらにその北にはイダIda王(559没)を始祖としたバーニシア王国(547ころ)があった。これらのアングロ・サクソン人は、メイズMaegthとよばれる郡程度の大きさの部族共同体を組織して開墾定住を進めたが、その共同体は土地の共同所有を原則とするもので、共同体を構成する基幹的階層はチェオルルceorlとよばれる一般自由民であり、それぞれ大家族を構成してハイドhideという分配地を受けていた。しかしすでに貴族階級もみられ、また貴族や一般自由民の家内には奴隷的身分の者が抱えられていた。

[富沢霊岸]

ヘプターキーとイングランド統一

アングロ・サクソン人が定住建国した5、6世紀から、それらが統一される9世紀ごろまでの時代は、ヘプターキー(七王国)時代とよばれる。南イングランドを最初に制覇したのはサセックスのエレ王(在位477ころ~491以後)で、ついでウェセックスのキーウリンCeawlin王(593没、在位560~592)、さらにケントのエセルバートEthelbert(Aethelberht)王(552?―616、在位560~616)が覇王となった。エセルバートは、フランクのメロビング朝の一族でキリスト教徒のベルタを妃としたが、597年には教皇グレゴリウス1世が派遣したアウグスティヌスのキリスト教布教を受け入れた。彼の法典は最初のサクソン法典として著名である。その後、覇権はマーシア王国に移った。この王国は、オファOffa王(796没、在位757~796)のときに発展し、フランクのカール大帝とも外交交渉をもったが、オファ王の発行した貨幣は彼の防壁とともに有名である。ノーサンブリア王国は、バーニシアBernicia朝のエセルフリットAethelfrith王(616?没、在位593~616?)がデイラ王国を併合したことに始まるが、政治勢力としてよりもキリスト教文化国家として発展し、663年にはこの地のホイットビーでローマ的キリスト教を採用する方針を決めた宗教会議が開かれ、またビスコプBenedict Biscop(628?―689/690)、ベーダ、のちにはアルクインらの碩学(せきがく)を輩出した。

 七王国を統一したのはウェセックス王国である。8世紀末の政争のなかからエグバート(エグベルト)王(在位802~839)が出て、大陸のフランク王国亡命中の見聞を生かして自らの王国を経営し、マーシア、ノーサンブリアを破って、アングロ・サクソン諸部族国家をイングランドとして統一する足掛りをつくった。しかし、そのころから異民族デーン人の侵入が激化して、北東イングランドの約3分の1の地域に彼らの定住をみたが、エグバートの孫アルフレッド大王(在位871~899)が出て、サクソン諸国家の期待を一身に集めてデーン人の進出を食い止め、サクソン人の生命財産を防衛し、また『アングロ・サクソン年代記』の編纂(へんさん)を通じてサクソン民族意識の高揚に努めた。その後、エセルスタンAthelstan(Aethelstan)王(939没、在位924~939)が929年ごろから全サクソン人の王と称したが、異民族侵入の中断したエドマンドEdmund王(エドマンド1世。921―946、在位939~946)およびエドガーEdgar王(944―975、在位959~975)の時代に州、郡制が規定されて、イングランド統一国家の行政組織が確立した。

[富沢霊岸]

デーン朝とノルマン・コンクェスト

デーン人の侵入は、エセルレッド2世Ethelred(Aethelred)Ⅱ(968?―1016、在位978~1016)の即位とともに大規模に再開された。991年、ノルウェー王オーラフ1世が大挙来襲したとき、カンタベリー大司教シゲリックらは、1ハイドにつき2シリングを徴収して、その総額1万ポンドでオーラフ王を買収した。これが有名な地租「デーンゲルド」Danegeld徴収の始まりである。その後もデンマーク王スベンらの来襲があったが、その次子クヌードは、1016年に急死したエセルレッド2世の子エドマンド2世(剛勇王。993?―1016、在位1016年4月~11月)をアシンドンで破り、エドマンドの急死後イングランド王位につき、デーン朝を開いた。その後、彼はデンマーク、ノルウェーをあわせて「北海帝国」に君臨したが、イングランドでは異民族征服者として厳格な統治を敷いた。デーン朝は3代で絶え、1042年にエセルレッド2世の子エドワード懺悔(ざんげ)王(在位1042~1066)が即位した。後継者に恵まれなかった王は、ノルマン人を偏重してノルマンディー公ウィリアムにイングランド王位を譲る約束をし、貴族の反乱を招いた。しかしドーバーなど5港市を指定してイングランド海岸の防衛にあたらせ、イギリス海軍の基礎を開いた。懺悔王の死後、王の側近ウェセックス伯ハロルド2世Harold Ⅱ(1022?―1066、在位1066年6月~10月)が王位についた。彼は、王位をねらうノルウェー王ハロルド(ハーラル3世Harald Ⅲ。1016―1066、在位1046~1066)をスタンフォード橋の激戦で撃破したが、後継約束の実現を果たすべく上陸してきたノルマンディー公ウィリアムとヘースティングズで対決して壮烈な戦死を遂げた。

[富沢霊岸]

中世盛期のイングランド

ノルマン朝

懺悔王の後継約束を果たしたウィリアムは、1066年末ロンドンで戴冠(たいかん)式をあげてウィリアム1世(征服王、在位1066~1087)となり、ノルマン朝を開いたが、これ以後イギリスはずっと異民族王朝の支配を受けることとなる。ウィリアム1世は、内外の危機に備えて、聖俗界貴族領のすべてに一定数の騎士軍を提供させる軍役を賦課して軍事的封建制を確立した。1086年末に全国の所領を調査した『ドゥームズデー・ブック』を編纂(へんさん)させたが、このことは、同年8月ソールズベリーにおいて全貴族から忠誠の誓約をとったことと相まって、彼の強力な中央集権制を物語るものである。彼の死後、長男ロバートRobert(ノルマンディー公。1054?―1134)、三男ウィリアム(ウィリアム2世、在位1087~1100)、四男ヘンリー(ヘンリー1世、在位1100~1135)たちの間で陰惨な後継争いが行われたが、結局ヘンリー1世がイングランドとノルマンディーとの統一支配に成功した。王は、最高法官ロージャーRoger of Salisbury(?―1139)を起用して財政、行政を整備し、全国巡回裁判官を任命して裁判権の集中に努めた。しかし晩年は不幸で、王子ウィリアムを海難事故で失い、ドイツ皇帝に嫁していた娘マティルダMatilda(1102―1167)も未亡人として帰国してきた。王の死後、彼の甥(おい)のスティーブンStephen(1097?―1154)がイングランド王に選立された(在位1135~1154)。しかし、アンジュー伯に再婚していたマティルダの挑戦があり、イングランドは内乱状態となった。十数年に及ぶ内乱のなかで、貴族は大いにその権勢を伸展させたが、安定した統一王権を求める期待もようやく高まり、マティルダの子ヘンリーがスティーブン王側と講和して、スティーブン王の死後ヘンリー2世(在位1154~1189)として即位した。

[富沢霊岸]

アンジュー帝国、プランタジネット朝と「マグナ・カルタ」

ヘンリー2世は、父ジェフリーからアンジュー伯位を、母方からノルマンディー公位を受け、母の血統権を受けてイングランド王となったが、1152年かつてのフランス王妃であったアリエノール・ダキテーヌと結婚してアキテーヌを併合し、フランス西半分を所領とする「アンジュー帝国」とよばれる広大な支配地を得た。彼は、教会裁判権を規制し、1170年末にカンタベリー大司教トマス・ベケットの殺害事件を起こし、またクラレンドン法によって大巡察制を徹底させ、国王裁判権を強化して封建貴族に対し抑制を加えた。最高法官グランビルRanulf de Glanville(1130?―1190)は、大陸領経営に多忙な王にかわって国政の運営にあたった。ヘンリー2世の死後、リチャード1世(獅子心(しししん)王、在位1189~1199)は、十字軍の帰途ドイツ皇帝に捕らえられ、帰国後も大陸領経営に専念してイングランドを留守にしたが、その後ジョン王(在位1199~1216)は大陸領経営に失敗し、フランス王フィリップ2世の怒りを買って1204年大陸領の大半を失った。王はイングランドの内政に専念したが、かえって北部貴族らの反抗を招き、また教皇インノケンティウス3世の推すラングトンStephen Langton(1150?―1228)のカンタベリー大司教就任を阻止したために、1209年教皇に破門された。貴族らは、王の内外の失政を批判して、1215年貴族らの起草した「マグナ・カルタ」(大憲章)の承認を強制し、王権の制限を図った。しかしジョン王は、その後和解した教皇や諸外国の援助を受けて、「マグナ・カルタ」の実施を認めず、貴族らと内戦を展開した。この問題は、彼の遺子ヘンリー3世(在位1216~1272)時代に持ち越された。幼少王を補佐した摂政(せっしょう)マーシャルWilliam Marshal(?―1219)は、「マグナ・カルタ」確認の方針を示したが急死し、後を受けた最高法官バーグHubert de Burgh(?―1243)が1225年大幅に修正された「マグナ・カルタ」を確認した。ヘンリー3世は、独裁的傾向を強めたために、シモン・ド・モンフォールら貴族は、庶民の代表を集めてその支持を求め、1258年オックスフォード条項を出して改革を要求したがいれられず、ついに1264年ルーイスで王軍を破り、王に貴族との共同統治を強制した。しかし、シモンらの政治は、派閥政治となったことが批判され、1265年8月エドワード皇太子の率いる王軍のためにイーブシャムで敗れた。皇太子は、その後貴族らの要求を取り入れて王政秩序を回復し、父の後を継いでエドワード1世(在位1272~1307)となった。王は国内の大調査を行い、それに基づいて多くの法を制定して治安維持に努めたが、1278~1294年に封建貴族権の権原を調査して貴族権の適正な行使を要求、1295年には「模範議会」を招集し、貴族たちのほか、州や都市から庶民代表を、また下級聖職者の代表を招集した。しかし、こののち、聖俗の貴族が合体して貴族院(上院)を構成し、他方下級聖職者代表は議会から脱退したため、州や都市を代表する騎士、市民が一つになって庶民院(下院)となり、議会は二院制の方向をとった。また、エドワード1世はウェールズの経営を強め、1301年皇太子をプリンス・オブ・ウェールズPrince of Walesとした。スコットランドでもベイリアル王John Balliol(1250―1314、在位1292~1296)を擁立して臣従させた。

[富沢霊岸]

百年戦争の開始と農民一揆

エドワード2世(在位1307~1327)は寵臣(ちょうしん)に頼る専制が目だち、スコットランド戦争にも惨敗を喫して貴族らの批判を受けていたが、イギリスのガスコーニュ領有に関して渡仏して折衝にあたっていた王妃イサベラIsabella(1292―1358)が、兄のフランス王シャルル4世の援助を受けて王への反抗を決意し、ロンドン市民の援助を得て王を追い、皇太子をエドワード3世(在位1327~1377)として即位させた。エドワード3世はガスコーニュ領有などの問題をめぐってフランス王フィリップ6世と対立するや、彼の母を通じたフランス王位継承権を主張して、1337年百年戦争に突入した。この戦争は長い休戦期間を含む戦争となったが、王は、治安判事制を発展させて戦争遂行を口実に王権を強化した。しかし、当時は、ようやく封建貴族領の農奴制経営が行き詰まり、逆に14世紀なかばの黒死病(ペスト)の流行による農民人口の減少のため、農民の社会的地位が高まりつつあった。そのなかでエドワード3世が死去し、四男のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが長兄の黒太子エドワードの遺子リチャード2世(在位1377~1399)を擁立して独裁した。1381年、過重な人頭税徴収を契機に、南東イングランドに、ワット・タイラーに指導された農民一揆(いっき)が起こり、ロンドンは騒擾(そうじょう)のるつぼと化した。一揆はほどなく収拾されたが、その後、王は自信を得て専制したため、ジョン・オブ・ゴーントの子ヘンリーが貴族を集めて挙兵して王を退位させ、ヘンリー4世(在位1399~1413)として即位し、ランカスター朝を開いた。

[富沢霊岸]

封建社会の展開

ノルマン・コンクェスト以後各地に封建所領が急速に発展した。封建所領を構成する単位は荘園(マナー)で、貴族は多くの荘園を領有する領主で、騎士はわずかの荘園を領有する領主であった。荘園農民のなかには、金納地代を納めて土地保有する自由農民もいたが、大部分は賦役奉仕を負って土地保有する農奴であった。しかし12、13世紀の生産力の増大とともに各地に商工業都市や地方市場が発達し、荘園農民のなかには経営規模を拡大、発展させ、農奴身分からの解放を求めて荘園領主の支配に反抗する者も現れた。また、都市においては有力な商工業者がギルドを結成して自治権と自由な営業権を王や貴族から得ていたが、ギルドの内部では親方の規制が強かった。しかし14世紀ごろになると、農村に毛織物工業を主とする農村工業が発展し、古いギルド規制を嫌う人々が農村に出て自由に毛織物工業をおこして都市のギルドの生産と競うようになり、また農村工業は農民の副業となって彼らの経済力をいっそう強めることとなった。こうして14世紀以後は農村における荘園領主支配、都市におけるギルド支配はしだいに崩れてくる。

[富沢霊岸]

百年戦争の終結とばら戦争

ヘンリー4世は議会制尊重を唱えたが、その実態はランカスター派の派閥政治であった。彼は初めウェールズの反乱に苦しんだが、フランスのシャルル6世を支持するブルグント派と、シャルル皇太子と結んだアルマニャック派との抗争に介入し、フランス遠征を企てたが失敗した。その後を受けたヘンリー5世(在位1413~1422)は、フランス王位継承権を主張してフランス各派と交渉し、決裂するや、1415年、戦争を再開してアザンクールで大勝した。また、ブルグント公、シャルル6世らと同盟して、アルマニャック派を孤立させ、フランス王女カトリーヌCatherine of Valois(キャサリン。1401―1437)との結婚を果たしてフランス王位継承権を確保したが急死した。その直後にシャルル6世も死んだため、5世の遺子ヘンリー6世(在位1422~1461、1470~1471)がイギリス王・フランス王となった。王はイギリス貴族やブルグント公に守られたが、1429年オルレアンの少女ジャンヌ・ダルクの出現で、イギリス軍はオルレアンとパテーで敗れ、シャルル皇太子はランスで戴冠式をあげてシャルル7世となった。ジャンヌは翌1430年イギリス側に捕らわれ、のち異端者として処刑された。一方、イギリスでは、王の結婚をとりもったサフォーク公が専制したが、1450年にジャック・ケードJack (John) Cade(?―1450)の反乱を招いて追放された。ランカスター朝の専制を批判する動きは、ヨーク公リチャードによって結集されて、1455年のセント・オルバンズの戦いから、ばら戦争が始まる。リチャード公の死後、エドワード公がヨーク派を指導し、ロンドン市民の支持を得てエドワード4世(在位1461~1470、1471~1483)として即位し、ヨーク朝を開いた。しかし、彼の統治もヨーク派の派閥色が強く、ヨーク派内部でも対立を生んで一時ヘンリー6世の復位を許した。そのあとのリチャード3世(在位1483~1485)は、国王評議会と地方裁判所の権限を強化して専断したが、ヘンリー・チューダーが指導するランカスター軍のため、1485年ボズワースの戦いで敗れた。ヘンリー・チューダーはヘンリー7世(在位1485~1509)としてチューダー朝を開いた。

[富沢霊岸]

絶対王政と市民革命

チューダー朝の成立

ヘンリー7世は、エドワード4世の娘エリザベスElizabeth of York(1466―1503)と結婚してヨーク派との和解を図り、人々の強大な王権を求める期待にこたえて、国王評議会議員(後の枢密院議員)で構成する星室庁裁判所を中心に地方の治安判事らの四季法廷の執行権を強化して、絶対主義王権の基礎を固めた。また、マーチャント・アドベンチュラーズ(冒険商人組合)などを保護して毛織物輸出を進め、イギリス海運の海外進出を促進した。

 ちょうどこのころ国内の毛織物工業の発展の結果、羊毛の需要が高まり、農村では穀物生産をやめて羊毛生産に切り替えたり、あるいは穀物生産の合理化を図ったりして、農地を大きく囲い込む第一次囲い込み運動(エンクロージャー)が広まっていた。富農や大商人たちは盛んに土地投資をしてそれを促進した。彼らは地主、ジェントリ層を形成してゆく。しかし他方、そのために保有地を追い立てられて浮浪する貧民も多く出て社会問題となった。

 次のヘンリー8世(在位1509~1547)は初めあまり政治を好まなかった。国王評議会議員トマス・ウルジーが大法官となって枢密院と星室庁裁判所を指導し、教皇代理にも任命されて行政と裁判権を独占した。ウルジーは、ドイツ皇帝カール5世と結んでフランスを攻めたが失敗し、男子の後継者に恵まれないヘンリー8世の妻キャサリンとの離婚を教皇に訴えたが、これも失敗して1529年失脚した。しかし王は、イギリス国民の反教会的風潮を利して、カンタベリー大司教クランマーの協力を得て離婚を決行し、1534年ローマ・カトリック教会から独立して国王至上法(首長令)を発布し、それを認めなかったトマス・モアらを処刑した。また、側近のトマス・クロムウェルとともに修道院解散を断行し、それに反対するイングランド北部の「恩寵(おんちょう)の巡礼」運動(1536)を抑え、1536~1539年に修道院を解散させてその広大な所領を没収し、それを再分配して、商人、地主層による土地集積を促し、農民の立ち退きと無産化を招来した。アイルランドにも教皇権の廃止を強制し、またスコットランドを攻撃した。彼ののち、ジェーン・シーモアJane Seymour(1508/1509―1537)との間の子エドワード6世(在位1547~1553)が9歳で即位し、摂政サマーセット公Edward Seymour, 1st Duke of Somerset(1500/1506―1552)が「祈祷(きとう)書」を統一して宗教改革を進めたが、公は1549年ケットの反乱を招いて失脚した。ついでノーサンバーランド公John Dudley, 1st Duke of Northumberland(1504?―1553)が内政と外交を支配したが、自分の義理の娘を王位につけようとし、国民の反対にあって処刑された。王の夭逝(ようせい)後、ヘンリー8世とキャサリンとの間の王女が、メアリー1世(在位1553~1558)として即位した。彼女は熱心なカトリック信者で、従兄弟(いとこ)のドイツ皇帝カール5世に従って、その子フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)と結婚した。女王は、前代までの宗教改革を放棄し、カトリック復活を志向して反対者を処刑し、「血の女王」の異名をとったが、かえってイギリス人の間にローマ・カトリックとスペインへの敵意を植え付けた。しかし、ヘンリー8世とアン・ブリンとの間の王女エリザベス1世(在位1558~1603)の即位とともに、国務大臣ウィリアム・セシルを中心とする枢密院が復権し、国王至上法、礼拝統一法が発布されてイギリス国教会(イングランド教会)が確立した。

 女王はマーチャント・アドベンチュラーズや特権商社を保護し、1600年に東インド会社を認可した。また国内の毛織物工業の発展にも意を用い、救貧法によって貧民の救済と就労を図った。女王は独身を通して後継者がなかったため、スコットランド女王メアリー・スチュアートの王位継承が予想され、彼女を象徴とするカトリック側の陰謀が各地に起こったので、エリザベスはメアリーを処刑(1587)してその禍根を断った。また、女王はウォーター・ローリーやフランシス・ドレークらの海上での活動を保護した。スペインの無敵艦隊「アルマダ」に対する勝利(1588)は、そのようなイギリスの海上活動の大きな成果であった。しかし女王の晩年は、ピューリタン(清教徒)たちによってその独占政策が強く批判され、波瀾(はらん)含みであった。

[富沢霊岸]

スチュアート朝とピューリタン革命

1603年、エリザベス1世が後嗣なく没したあと、血縁によりスコットランド王ジェームズ6世(在位1567~1625)がイングランド王を兼ね、ジェームズ1世(在位1603~1625)としてスチュアート朝を開き、両国は同君連合の関係になった。スコットランド育ちの王は、イングランドの実状に疎く、宗教政策では国教徒を支持し、政治面ではイングランドの国法であるコモン・ローの伝統に反する王権神授説を奉じて専制支配を試み、議会や国民の反感を買った。なお、同王の治世には、北アイルランドに新教徒の植民が進められ、また北アメリカにピューリタンが移住して(「巡礼始祖、ピルグリム・ファーザーズ」とよばれる)、その後のアイルランド問題やアメリカ合衆国の歴史の発端がつくられた。

 王権と議会・国民との対立は、次のチャールズ1世(在位1625~1649)の時代になるといっそう先鋭化し、1628年、議会が「権利請願」を提出したのに対し、立腹した王は翌1629年議会を解散、以後11年間は議会を招集せず、その間に船舶税その他の税を違法に取り立てた。しかし、大主教ロードの建言により、長老主義を国教とするスコットランドにまでイギリス国教を強制しようとしたことから、スコットランド人の反発を招き、反乱が起こったため、1640年、王もついに短期議会、続いて長期議会を招集せざるをえなくなった。この長期議会と王権との対立がこじれて、ついにピューリタン革命となり、初めは国王軍が優勢であったが、のちしだいに議会軍が有利になり、最後にはチャールズ1世も捕らわれた。その間、議会派内部でも独立派と長老派、軍隊と議会の対立が目だつようになったが、結局はクロムウェルの率いる独立派が権力を握り、1649年王を処刑して共和制を宣言したのち、1653年にはクロムウェルを護国卿(きょう)とする支配体制を樹立した。

 チューダー朝以来、地方社会の実権を握っていたのは、中小地主層を中心とするジェントリであったが、彼らは無給の治安判事として地方行政にあたり、また下院議員として地方と中央とをつなぐ役目を果たしていた。そして、議会の承認なしには課税されないとか、理由なく拘留されることはないというような、彼らの神聖な権利を保証している基本原則は、古来の慣習であるコモン・ローであって、ローマ法的な力の原理に頼ってこれを無視しようとした王権は、彼らにとって忍びうるものではなかった。その結果、とりあえず大陸流の絶対王権の出現は阻止しえたが、かわって成立したクロムウェルの政府も剣の力を背景とする独裁的な権力であった。アイルランドに遠征して無差別虐殺を断行し、航海法を一因とするイギリス・オランダ戦争(第一次)でオランダの海上権に挑戦し、スペインと開戦してジャマイカを占領するなど、対外的には武威を高揚させたものの、国内の軍政官制度やピューリタン的規律の強制はジェントリの不満を生み、クロムウェルの病没(1658年9月)後、1660年に亡命先からチャールズ2世(在位1660~1685)を迎えて王政復古が実現した。

[松村 赳]

王政復古

王政復古直後の騎士議会には、かつての国王派が多く返り咲き、王権と国教会による支配体制の確立を目ざし、クラレンドン法とよばれる一連の立法によってピューリタンの根絶を策した。しかし、チャールズ2世は、1670年フランス王ルイ14世との間に、財政援助を受ける代償にイギリスに旧教復活を図ることを約束したドーバー密約を結び、1672年には信仰自由宣言を発して旧教徒保護に乗り出すとともに、フランスに加担してオランダと開戦した(第三次イギリス・オランダ戦争)。当時、旧教勢力は単なる宗教上の問題ではなく、フランスやスペインなどの強国と結び付いた政治的侵略の危険をも意味したから、議会や国民は王への警戒心を強め、1673年には審査法を成立させた。また、この動きを利用して、旧教徒である王弟のヨーク公ジェームズを王位継承権者から除こうとする法案が提出され、これをめぐって議会内にホイッグ党(賛成派)とトーリー党(反対派)が生まれた。これが一般に近代政党の始まりとされるものであるが、当時の政治倫理はいたって低く、むしろ利害打算に基づく集団に近かった。一般にチャールズ2世の治世は、ピューリタンの厳格な支配への反動と宮廷のフランス趣味によって、快楽や安逸にふける風潮が強まり、道徳的腐敗が蔓延(まんえん)した時代で、そのことは当時の文学や芸術にも反映している。

[松村 赳]

名誉革命

王位継承権排除を免れたヨーク公は、1685年ジェームズ2世(在位1685~1688)として即位したが、彼は兄以上に露骨な専制支配と旧教化政策を推進しようとした。そのため、1688年、危機感に駆られた議会指導者たちが王の長女メアリーとその夫であるオレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム2世)に招請状を送り、これにこたえてウィリアムが軍を率いて来航し、ジェームズは亡命して、ウィリアム(3世、在位1689~1702)とメアリー(2世、在位1689~1694)は翌1689年共同で王位についた。いわゆる名誉革命である。この場合、議会が王位の空位を宣言し、新王夫妻は議会が起草した「権利宣言」(後の「権利章典」)を認めたうえで即位したことは、17世紀初め以来の課題であった「真の最高権力は王にあるのか議会にあるのか」という問題に決着をつけたことを意味し、ここに、イギリスでは他国に先駆けて議会政治体制の基礎が据えられた。

 オランダ統領(総督)でもあったウィリアム3世は新教勢力の指導者として旧教大国フランスの覇権をくじくことに腐心し、また、フランスの援助のもとに王位奪回を図ったジェームズ2世をアイルランドに破り同地方を植民地化した。メアリー2世の後は妹のアンが登位(在位1702~1714)し、彼女の治世にイングランドは、スペイン継承戦争に参戦してフランス、スペインと戦い、新大陸の植民地を拡大するとともに、ジェームズ1世以来、同君連合が続いていたスコットランドと合同してグレート・ブリテン王国になった(1707)。

[松村 赳]

議会政治の形成と産業革命

ハノーバー朝と議院内閣制

アン女王の没後、ドイツ系のジョージ1世(在位1714~1727)が王位を継いでハノーバー朝を開いた。この時代は、名誉革命体制を肉づけし、二大政党による議会政治や議院内閣制が、試行錯誤のなかからしだいに定着してゆく時期であり、それらの推進役として地主層が実権を握った地主王政ともいうべき時期でもあった。ジョージ1世とその子ジョージ2世(在位1727~1760)との治世およそ半世紀間は、ホイッグ党の全盛期で、とくに約20年間政権を担当したウォルポールのもとで内閣制度が形をなしていった。彼の平和政策は、オーストリア継承戦争(1740~1748)への参戦で破綻(はたん)し、まもなく下野したが、イギリスはこの戦争でも、続く七年戦争(1756~1763)でも、つねにフランスの敵となって、いわゆる「第二次百年戦争」を展開、植民地でも北アメリカやインドで戦い、カナダとミシシッピ川以東を獲得して、大植民地帝国と海上覇権の基礎を確立した。ジョージ3世(在位1760~1820)の治世の多くはトーリー党が優勢であったが、当時は議会政治がまだ試行錯誤する形成期で、買収は日常茶飯事であったから、王は議員を買収して内閣を籠絡(ろうらく)し、国政を牛耳(ぎゅうじ)ろうと試みた。その結果、1770年代に北アメリカ植民地の反乱、ついには合衆国の独立を招いた。しかし、合衆国承認直後から20年近く国政を指導した小ピットは、トーリー党を近代的政党に脱皮させるとともに、対仏大同盟を主導してナポレオン1世の脅威に対抗し、ネルソンやウェリントンらの活躍によってイギリスはついにその脅威を退けた。

[松村 赳]

産業革命と自由主義

ジョージ3世の治世はまた産業革命の進展した時期とも重なっていた。新興の綿工業から始まった技術革新は、石炭、鉄その他の広範な工業分野に及び、蒸気機関の発明や鉄道の普及と相まってイギリスの工業力を飛躍的に高めた。一方、農業においても第二次囲い込み運動(エンクロージャー)によって中世以来の開放耕地が消え、地主の営利主義的農業経営が進んだ。

 こうして工業においても農業においても資本主義化が実現したが、それに伴ってさまざまな社会上の問題が起こり、各種の社会改革が行われた。まず、イギリスの工業力が強まるにつれて、スミスやリカードが唱えた自由主義経済が有力になり、1840年代には穀物法や航海法も廃止された。他方、営利主義的な経営は労働者の酷使を一般化し、これに対してオーエンらの人道主義的な運動が起こるとともに、労働者自身も労働組合を結成し、団結して待遇改善を要求するようになり、工場法、十時間労働法などが制定された。また、工業化とともに進出してきた産業資本家などの中産層は政治への発言権を求め、その結果、1832年に選挙法が改正されたが、これに取り残された労働者はチャーティスト運動を起こし、直接の成果には結び付かなかったものの、結局は選挙法の第2回(1867)、第3回(1884)の改正によって、彼らにも選挙権が与えられた。

 このように自由主義的改革が次々と積極的に進められていたころにビクトリア女王(在位1837~1901)が即位したが、19世紀後半の二十数年間、イギリスはまさに「黄金時代」を謳歌(おうか)した。拡大された選挙権に基づいて、トーリー党とホイッグ党との後身である保守党と自由党とが覇を競い、自由党優勢のうちに政党政治がさらに発展した。1851年にはロンドンで最初の万国博覧会が開かれ、「世界の工場」イギリスの工業力を世界に誇示したが、その実力を背景に、アヘン戦争(1840~1842)、アロー戦争(1856~1860)などを通じて中国に進出し、また「インドの大反乱」(セポイの反乱、1857~1859)を機にインドを完全に植民地化するなど、七つの海を制する大植民地帝国の繁栄はいや増した。

[松村 赳]

大植民地帝国から連邦へ

帝国主義と第一次世界大戦

1870年代になると、ビクトリア時代の繁栄にも大きな転換期が訪れた。19世紀初頭以来イギリスは工業の最先進国であり、十分な意味で資本主義国とよべるのはイギリスだけであったが、このころになると、アメリカ、ドイツその他の国々も工業化を進めて資本主義国となり、イギリスに迫ってきた。いわゆる帝国主義時代の到来である。イギリスは、従来のような独走態勢が許されなくなって慢性的不況に陥り、改めて植民地の重要性が痛感された。インドは、ビクトリア女王を皇帝とするインド帝国に再編されたほか、これまで無視されてきたアフリカにも触手を伸ばし、スエズ運河株式会社の株の買収を機にエジプトを保護下に置き、その南のスーダンからケープ・タウンに至る三C政策の実現を図り、世紀の変わり目にはブーア戦争(1899~1902)を起こして、まもなく南アフリカ連邦を築いた。その一方で白人植民地に対しては、自治領として帝国内につなぎ止める政策が進められ、1867年のカナダを皮切りに、20世紀に入って次々と自治領化し、1887年以来、植民地会議(のち帝国会議と改称)を開催して、それらと本国との結束を図った。イギリスでは、旧来の支配層であった地主も新興の実力者である産業資本家層も、その富を海外に投資する投資家階級になっていったため、彼らにとって植民地体制の維持、強化は至上命令であった。

 国内では、1860年代から1880年代なかばにかけて、グラッドストーンとディズレーリとが、それぞれ自由党と保守党を率いて交互に政権を担当し、典型的な二大政党制を実現したが、1880年代になると労働者にも選挙権が認められたこともあって、彼らとくに非熟練労働者の組織化が進み、これと社会主義団体フェビアン協会などが合流し、1900年に労働代表委員会が結成され、1906年には労働党と改称した。

 外交面では、帝国主義時代の新情勢、とくに新生ドイツ帝国との対抗から、1902年、伝統の「光栄ある孤立」を捨てて日英同盟を結び、続いてイギリス・フランス協商、イギリス・ロシア協商によって三国協商を形成し、三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)と対立した。その結果、第一次世界大戦(1914~1918)となり、イギリスは開戦翌年アスキスのもとに自由・保守・労働3党の連立内閣をつくったが、総力戦となったこの大戦に対処するには指導力が足りず、やがてロイド・ジョージが登場、強力な戦時内閣を組織し、ドイツの無制限潜水艦作戦による脅威を乗り切って勝利を迎えた。しかし、勝ったとはいえ、大戦はイギリスの社会に大きな影響を与えた。大戦が終わったとき、イギリスの国力、経済力は著しく低下していた。イギリスは、アメリカへの債務国になっており、世界金融の中心もロンバード街からウォール街に移って、その国際的地位や影響力は弱まった。他方、戦争によって植民地などの民族主義的独立運動が高まったが、これに対しては、アイルランドの復活祭(イースター)蜂起(ほうき)(1916)やインドのアムリッツァル事件(1919)にみられたような容赦ない武力弾圧を加え、その一方で、自治領の独立性を認めたうえで「イギリス連邦」としてつなぎ止めることに腐心し、1931年ウェストミンスター憲章が定められた。問題の多いアイルランドも、とりあえず自由国として(1922)連邦にとどめられた。

 社会的には、国民生活の多方面にわたる政府の指導、統制が強まり、また戦争遂行の大きな力になった労働者の立場は向上し、1925年ボールドウィン内閣の金本位制復帰による不況に対し、翌1926年炭鉱労働者を中心としてゼネストを決行するまでになった。それとともに自由党が衰退して労働党の勢いが伸び、1924年の一時的政権担当を経て、1929年には第一党としてマクドナルドが内閣を組織し、同年に襲った世界恐慌に対処することになった。

[松村 赳]

第二次世界大戦と戦後の諸問題

世界恐慌はイギリスにも深刻な影響を与え、経済は苦境に陥り、対策をめぐって労働党政権は瓦解(がかい)した。マクドナルドは新たに挙国一致内閣を組織し(1931)、金本位制からの離脱、オタワ会議(1932)に基づくブロック経済などの施策を通して国力の回復に努めた。しかし、世界恐慌の混乱のなかから台頭してきたヒトラーのファシズムに対してイギリスは強硬な態度をとることができず、宥和(ゆうわ)政策で事態の収拾を図ろうと努め、1938年首相チェンバレンはミュンヘン会談でヒトラーの強引な要求を容認した。結局、宥和政策も空しく、1939年イギリスは第二次世界大戦に突入し、翌1940年、対独強硬派のチャーチルを首相とする挙国一致内閣が成立した。戦局は、ヨーロッパでも、1941年からの対日戦でも、初めは連合軍が圧倒されたが、最後には勝利を収めることができた。

 戦勝の最大の要因は、ヨーロッパでもアジアでも、アメリカの工業力、軍事力にあったが、それでもチャーチルは、少なくとも外交面ではルーズベルトと対等に渡り合って戦争を指導した。戦後もしばらくはなお大国意識が残っていたが、1956年のスエズ戦争でアメリカとソ連との干渉に屈して撤兵せざるをえなかったことは、イギリスの国際的地位の低下を全世界に印象づけ、さらに、翌1957年に成立したEEC(ヨーロッパ経済共同体)に対し、初めはEFTA(エフタ)(ヨーロッパ自由貿易連合)を組織して対抗しながら、結局太刀(たち)打ちできず、1963年には逆にEEC加盟を申請してドゴール大統領に拒否された醜態は、その印象を決定的なものにした。EEC(のちEC)への加盟は、その後も再三申請したすえ、1973年にようやく実現したが、そのことは、全世界にまたがる旧大英帝国のつながりをもとに、ヨーロッパ大陸諸国とは一線を画してきた伝統的態度を捨てて、大陸との一体化に踏み切ったものであり、過去のきずなをあえて弱めることを意味していた。イギリスの植民地は、第二次世界大戦後の数年間にインドその他のアジア諸国が、1960年代にはアフリカや西インド諸島の諸国が次々に独立し、地図のうえでは大英帝国は完全に解体したが、独立後も「連邦」Commonwealth of Nations(1949年「イギリス連邦」British Commonwealth of Nationsから改称)にとどまるものも多く、旧帝国の結び付きはけっして消滅してはいなかった。イギリスは自らその結び付きを弱めたのであり、もはや大国ではないことを天下に表明したも同然であった。

 イギリスがあえてEEC加盟の道を選んだ最大の理由は、いうまでもなく経済状態の悪化であった。第二次世界大戦終結直後の1940年代後半に政権を担当したアトリーの労働党政府は、イングランド銀行や重要産業の国有化という思いきった手段をてこに工業の再建を図り、一方で「揺り籠(かご)から墓場まで」をスローガンに広範な社会福祉政策を推進し、公営住宅やニュータウンの建設に力を入れた。その結果、経済は順調に回復し、1950年代初頭に保守党のチャーチルが返り咲き、エリザベス2世が即位(1952)したのちの数年間、完全雇用が実現してイギリスは繁栄を謳歌(おうか)した。しかし、1964年ふたたび労働党が政権を奪回したころには、繁栄は終わって経済はすでに下り坂であり、インフレが進んでいた。前年のEEC加盟申請もその表れであった。その後のイギリス経済は、一時的回復はあっても、全体的には慢性的に悪化への道をたどり、ストライキは頻発し、インフレと失業率は上昇を続け、「イギリス病」という表現を生むに至った。1970年の北海油田の発見も、1973年のEC(ヨーロッパ共同体)加盟実現も、起死回生の妙薬とはなりえなかった。

[松村 赳]

サッチャー時代

1979年5月の総選挙において、保守党は、競争原理の導入による活性化を図ることを訴えて圧勝し、サッチャーがイギリスの歴史上最初の女性首相となった。サッチャーは「自助努力」を訴え、「強くて小さな政府」を看板にして、イギリスを社会主義的な福祉国家から自由主義経済国家に復帰させることに政策の主要な目標を置いた(サッチャリズム)。1982年4月に勃発(ぼっぱつ)したフォークランド紛争に勝利してサッチャーの人気は頂点に達した。1983年の総選挙の結果は、保守党が労働党に188議席の大差をつけて、第二次世界大戦後最大の圧倒的な勝利を収めた。第二次サッチャー内閣は、「イギリス病」の元凶とみなした労働組合、とりわけ炭鉱労組に対して攻撃の矢を向け、国内の生産性の低い炭鉱を閉鎖すると発表した。組合側も徹底抗戦を主張し、その結果生まれた激しい紛争は1年有余に及んだが、ついに政府側が勝ち、労働者は職場に復帰した。そして、「サッチャリズム」には全盛期が到来した。電信電話、ガス、航空機製造などの国有産業が民営化され、1987年度の国家財政はじつに18年ぶりで黒字になった。しかし国民の生活水準は向上したものの、失業率は依然として高率を続け、福祉や教育などの公共部門への支出は大幅に削減されたため、サッチャリズムは弱者の切捨て政策であるという批判の声が高まった。サッチャーは労働党急進派の拠点であった地方自治体に対しても改革のメスを入れ、1986年4月に大ロンドン市議会を廃止して、衝撃を与えた。1987年6月に総選挙に訴えたサッチャーは、労働党に大差をつけて347議席を獲得し、首相3選を果たした。当初は順調な出発かとみえたが、1989年以降はインフレの高進、ポンド安、国際収支の赤字拡大から経済状態が悪化し、国内、国外の両面において、サッチャーはしだいに孤立の度合いを深めていった。とりわけヨーロッパ統合が予想以上の速度で進展をみたのに対し、サッチャーは一貫して国家主権の尊重という姿勢を崩さず、政治的統合どころか通貨統合にも強く反対したため、EC加盟諸国との溝は深まり、ヨーロッパ議会の選挙でも労働党に敗れて、急速に支持率を低下させた。そのうえ、先の国民医療制度の改定に続いて、1990年4月、従来の固定資産に基づく地方税にかえて、すべての住民に均等課税する「コミュニティ・チャージ」を採用したことは、歴史上悪名高い「人頭税」の再現を思わせるとして反発を招き、反対運動は暴動の形をとることもあった。11月に行われた保守党の党首選挙に出馬したサッチャーは、過半数を確保したものの、再投票を余儀なくされて辞任し、かわって労働者階級出身のメージャーが保守党党首として組閣した。ここに11年余り続いたサッチャー時代もついに終わりを告げた。

[今井 宏]

労働党ブレア政権の誕生

メージャーはサッチャーよりは柔軟な姿勢を示しつつも、基本的な政策は前政権を継承したが、党内にはEC統合に批判的な勢力が依然として根強く存在し、経済の活性化にも難問が山積して失業率も好転しない状況のなかで、1992年4月の総選挙においては不利が予想されたが、かろうじて政権を維持することができた。翌1993年8月にはマーストリヒト(ヨーロッパ連合)条約の批准をかちえたものの、ヨーロッパ通貨統合には反対する声が強く、党内の分裂状況を克服することはできず、また数多くのスキャンダルによって支持者を失っていった。その間に野党の労働党は若い党首トニー・ブレアの下で「新しい労働党」を看板にして、従来の労働組合依存体質を改めて穏健な国民政党を目ざす改革が進められた。その結果、1997年5月に行われた総選挙においては、労働党が総議席数659のうち419議席を獲得するという圧倒的な勝利を収めて、18年間に及ぶ保守党支配に終止符を打ち、後任の首相に43歳の若さのブレアが就任した。ブレア政権はスコットランドとウェールズに対して住民投票を実施した。その結果を受けて大幅な権限を委譲し、1999年それぞれに独自の議会を設置して、「連合王国」の再編成にのりだした。また貴族院の世襲議員を一挙に削減する改革も断行した。その前年の1998年には大ロンドン市議会の復活と公選市長の是非を問う住民投票が実施され、賛成多数で可決された。これに伴い2000年5月には、市長選挙と市議会議員選挙が実施され、初の公選市長には下院議員ケン・リビングストンKen Livingstone(1945― )が当選した。サッチャー政権時代の1986年に廃止された大ロンドン市議会は、復活したのである。

 2001年6月の総選挙において労働党はふたたび圧勝したが、政権2期目においては2003年のイラク戦争およびその後の対応に対して国民から強い批判を受け、2005年の総選挙で過半数を獲得したものの大幅に議席数を減らした。ブレア政権は労働党として初めて3期連続で政権を握ったが、支持率が低迷、2006年の地方議会選挙にも大敗した。3期目においては北アイルランドの自治政府復活という成果をあげたが、党内の反対勢力より早期退陣を求める声が強く、ブレアは2007年5月に辞任を表明。同年6月24日の臨時党大会で後継党首に財務相のゴードン・ブラウンが選出された。ブレアは6月27日に任期を3年残して途中退陣し、ブラウンが首相に就任。ブレア政権は10年で幕を閉じ、ブラウン政権が発足したが、通貨統合への加盟問題、イギリス軍のイラク駐留問題など多くの課題をかかえている。

[今井 宏]

イギリス史の研究史

19世紀中葉の開国以来の日本人にとって、七つの海を制覇した大植民地帝国イギリスは、世界の最先進国として、脅威とともに憧憬(しょうけい)の対象でもあった。日本と同じようなこの小さな島国の富強のよってきたる原因を探ろうとする視角が、イギリス史をみる眼(め)をながく支配した。このことは、日本においてイギリス史の研究が本格的に展開し始めた第二次世界大戦後において、敗戦を通して日本の近代化のゆがみと遅れが痛感されたことによって、いっそう増幅されたといえる。そのため、イギリス史の主要な研究課題は、日本が経験しなかった市民革命に求められ、それの近代社会成立に果たした意義が強調された。17世紀に世界に先駆けて起こったイギリス市民革命の原因を問うという問題意識は、イギリスにおける封建社会とその解体過程に研究者の関心を集中させ、農村に展開した中産的生産者層に近代化の担い手をみいだす大塚久雄の業績を中心にして、イギリスの近代を「模範」とみるとらえ方が支配的になった。

 しかし、1960年代に入って、イギリスの国際的地位の低下と経済の停滞が紛れもない事実として意識されるにつれて、過去のイギリス像に対する批判と反省の声も高まり、イギリス近代社会を現代との関連において改めて問い直そうとする傾向が強くなった。そして、かつては経済史の研究が主流を占めていたのに対し、政治、思想、社会、文化史の領域でもしだいに研究が深められ、総合的なイギリス史像の探究が進められている。

[今井 宏]

『G・M・トレベリアン著、藤原浩・松浦高嶺・今井宏訳『イギリス社会史』全2巻(1973、1975・みすず書房)』『G・M・トレベリアン著、大野真弓監訳『イギリス史』全3巻(1974~1975・みすず書房)』『今井宏編『イギリス史2――近世』(1990・山川出版社)』『青山吉信編『イギリス史1――古代・中世』(1991・山川出版社)』『村岡健次・木畑洋一編『イギリス史3――近現代』(1991・山川出版社)』『青山吉信・今井宏編『新版 概説イギリス史――伝統的理解をこえて』(1991・有斐閣)』『今井宏著『ヒストリカル・ガイド イギリス』(1993・山川出版社)』『川北稔編『世界各国史11 イギリス史』新版(1998・山川出版社)』『岩井淳・指昭博編『イギリス史の新潮流――修正主義の近世史』(2000・彩流社)』『川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史――帝国=コモンウェルスのあゆみ』(2000・有斐閣)』『指昭博著『図説 イギリスの歴史』(2002・河出書房新社)』『ジェレミー・ブラック著、金原由紀子訳『図説 地図で見るイギリスの歴史――大航海時代から産業革命まで』(2003・原書房)』『W・A・スペック著、月森左知・水戸尚子訳『イギリスの歴史』(2004・創土社)』『アンドリュー・ローゼン著、川北稔訳『現代イギリス社会史――1950~2000』(2005・岩波書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イギリス史」の意味・わかりやすい解説

イギリス史
イギリスし
history of United Kingdom

大ブリテン島の人類の生存は十数万年前の旧石器時代に始る。前 27世紀頃からの新石器時代,前 20世紀頃からの青銅器時代を経て,前7世紀頃から鉄器をもってケルト系の諸部族が侵入。前1世紀なかばローマの将軍ユリウス・カエサルの攻撃を受け,1世紀なかばから5世紀初めまでローマ帝国の属州となった。5世紀なかば以後民族大移動により,アングロ・サクソン人が移住,イングランドを占拠して七王国を形成。9世紀前半ウェセックスが統一してイングランド王国が成立。この頃からデーン人の侵入が激しく,11世紀前半にはその王クヌートの支配を受け,1066年にはノルマンディー公ウィリアムに征服 (→ノルマン・コンクェスト ) され,封建国家となった。王権は当初から強大であったが,それに反抗する貴族により,『マグナ・カルタ』,議会制度など自由主義の萌芽が現れた。百年戦争,バラ戦争を経て近代に入り,王権はさらに伸長したが,清教徒革命,名誉革命により立憲君主制を確立。 18世紀初めスコットランドと,19世紀初めアイルランドと合同,連合王国を形成。 18世紀後半に始る産業革命により世界の工場として資本主義が発展,19世紀には国内においては自由主義的な改革を行い,対外的には大英帝国を形成し,世界の最先進国家となった。 20世紀には2度の世界大戦を経験,第2次世界大戦後は旧植民地から独立が相次ぎ,またアメリカとソ連の台頭で国際政治における地位が低下した。経済も停滞状態が慢性化するいわゆる「イギリス病」に長らく苦しんだが,80年代に厳しい経済改革を断行した結果ようやく回復の兆しが現れ,90年代半ば頃より活況を迎えた。北アイルランドでは,アイルランドへの帰属を求める少数派カトリック住民とイギリス統治継続を望むプロテスタント住民の深刻な対立を長くかかえ,特に 60~80年代はアイルランド共和軍 IRAによるテロ活動が激化して多くの犠牲者を出したが,93年にイギリスとアイルランドの間で和平共同宣言が出されたのを契機に対立は徐々に沈静化した (→北アイルランド紛争 ) 。

イギリス史
イギリスし
History of England

イギリスの哲学者デービッド・ヒュームの歴史書。6巻,1754~62年刊。カエサルのイギリス征服から名誉革命 (1688) までを扱っているが,出版は年代と逆に3回に分けて行われた。王党派的立場をとるが,ギボンの『ローマ帝国衰亡史』と並ぶ 18世紀啓蒙主義の代表的著作。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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