アルゼンチン(読み)あるぜんちん(英語表記)Argentine

翻訳|Argentine

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルゼンチン」の意味・わかりやすい解説

アルゼンチン
あるぜんちん
Argentine

南アメリカ南部の共和国。正式名称はレプブリカ・アルヘンティーナRepública Argentina。「アルヘンティーナ」は銀を意味するラテン語に由来する。この名称はラ・プラタ(スペイン語で銀の意)川の土地に豊かな鉱産物があると考えられていたことによる。国土は278万0400平方キロメートルに達し、このほかフォークランド諸島(アルゼンチン名ではマルビナス諸島)など南方の諸島、南極大陸の一部などに対しても領有を主張している。人口は3626万0130(2001年センサス)、3810万(2004年推計)。首都はブエノス・アイレス。

 西はアンデス山脈を挟んでチリと国境を接し、東および北はラ・プラタ川とその水系の河川などを境に、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアと国境を接する。1870年代以降の急速なパンパ(中央部の草原地帯)の開発によって、一躍牛肉と小麦の重要な輸出国となり、今日ブラジルに次ぐ南アメリカ第二の大国となっている。

[細野昭雄]

自然

アルゼンチンはパンパ地方を中心に、西部(アンデス山脈)、南部(パタゴニア地方)、北東部(チャコ地方、メソポタミア地方)の主要4地域からなる。

 アンデス山脈は第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈で、中央部分は4000ないし5000メートルの山地からなり、南北アメリカの最高峰アコンカグア山(6960メートル)をはじめ、北からユヤイヤコ山(6723メートル)、トゥプンガト山(6800メートル)、マイポ山(5290メートル)などの高山がそびえる。しかし山脈の高さは南下するにしたがって低くなっている。アンデス主脈の東側には一連の支脈が並び、北東部にはボリビアのアルティプラノ高原に連なる高原やプーナとよばれる高原があり、トゥクマンの南からコルドバ山脈の西にかけては乾燥した盆地群が南北に延びる。またアンデス山脈に水源をもつ河川のなすオアシスが、カタマルカ、サン・フアン、メンドサなどのアンデス山脈東麓(とうろく)に連なっている。

 以上のアンデス山脈とその周辺地域からさらに東へは、大西洋岸またはラ・プラタ水系の河川に至る広大な平原または台地が広がる。それらは北からチャコおよびパンパの平原とパタゴニアの台地である。両平原のなかにみられる山地は、パンパ西部の中央パンパ山脈、南部のベンタナ山脈およびタンディル山脈のみにすぎない。主要な河川としては、ブラジル高原に水源を有するパラナ川、ウルグアイ川とチャコおよびアンデス山脈北部に水源を有するピルコマヨ川、ベルメホ川、パラグアイ川があり、いずれもラ・プラタ川に合流する。またアンデス山脈中央部からはネグロ川などが、同南部からはチュブート川が、それぞれ大西洋に注ぐ。

 パンパは湿潤パンパと乾燥パンパに分かれる。湿潤パンパは夏は暑いが冬は温和であり、降水量もブエノス・アイレスで年平均975ミリメートルあり、西へ行くにしたがって減少するが、バイア・ブランカでも546ミリメートルある。これに対し乾燥パンパは降水量が少なく、とくに冬の降水が少ない。チャコ地方は乾期のある亜熱帯気候で、夏の降水量が多い。しかし排水が悪く、東部は雨期には広大な地域に河川が氾濫(はんらん)し、このため低湿地が多い。

 パラナ川とウルグアイ川に囲まれたメソポタミア地方は高温多雨で、乾期のない亜熱帯気候である。乾燥パンパの西側からアンデス山脈の山麓にかけては乾燥平原、山地気候で、降水は非常にわずかである。その南のパタゴニアは寒冷乾燥気候となり、この地域では降水は冬にみられる。寒冷ではあるが海洋が気温を和らげている。

[細野昭雄]

地誌

アルゼンチンの人口と経済活動は圧倒的に首都ブエノス・アイレスとその後背地の湿潤パンパの地域に集中している。湿潤パンパはブエノス・アイレス州の全部、サンタ・フェ州の南部、コルドバ州の東部、ラ・パンパ州の北東部を含む起伏の少ない広大な草原であり、肥沃(ひよく)な土壌と温暖な気候に恵まれ、現在豊かな農業牧畜地帯となっている。しかし、その本格的開発は19世紀末のヨーロッパ移民の定住と、イギリス資本による鉄道、冷凍施設の建設をもって開始されたのであり、その開発の歴史は新しい。この国の小麦、トウモロコシなどの穀物生産の大部分がここで行われ、また、牧牛のおよそ3分の2、ヒツジの半数が乾燥パンパを含むパンパ地方に集中している。したがってこの地方には首都のほか、サンタ・フェ、ラ・プラタ、保養地のマル・デル・プラタ、港市のバイア・ブランカ、パンパ西部の盆地にあるコルドバなどの主要都市が位置している。

 サルタ、フフイ、トゥクマンなどの諸都市からなる北西部の地域は植民地時代の初期からの活発な経済活動の中心であり、アルト・ペルー(今日のボリビア)への農産物や皮革製品がこの地域から出荷された。現在は、サトウキビをはじめとする亜熱帯農産物の生産とその加工品、伝統的手工芸品の生産が行われている。

 新しい農業地帯であるメソポタミア地方は、パンパ地方よりやや遅れて、主としてヨーロッパ移民により開発が進められ、現在では、マテ茶、茶、タバコ、綿花、果実類をはじめとする、多様な亜熱帯農産物の重要な生産地となっている。チャコ地方でも水位低下期の湿地帯の季節的耕作、西部の灌漑(かんがい)農業などにより、綿花などの亜熱帯農産物の生産が行われている。またチャコ地方はタンニンを精製するためのケブラチョ樹の生産地としても重要であった。

 チャコとパンパの両平原およびアンデスの主脈に挟まれた地域は、一連の盆地群およびアンデス山麓のオアシス群からなる。前者はパンパ山地地方ともよばれ、カタマルカ、ラ・リオハ、サン・ルイスの3州の東部とコルドバ州西部が含まれ、灌漑水利施設の建設により、オリーブ、果実などの生産が行われる。この地域の西から南にかけてのサン・フアン、メンドサを中心とする地域はクヤナ地方ともよばれ山麓のオアシスにブドウをはじめ各種果物、野菜が生産される。その南の南部アンデス山麓およびパタゴニア地方はヒツジの飼育がおもな産業となるが、盆地や谷では果実などの栽培も行われる。

[細野昭雄]

歴史

先住民はインディオで、山岳地帯を中心に数種族が居住していた。スペイン人によって植民が始められたのは16世紀中ごろ以後である。1516年のファン・ディアス・デ・ソリスJuan Díaz de Solís(1470?―1516)によるラ・プラタ川の「発見」、1520年のマジェラン(マゼラン)によるマゼラン海峡の「発見」などののち、1535年ペドロ・デ・メンドサPedro de Mendoza(1487―1537)の率いる大規模な探検隊が派遣され、ブエノス・アイレス市が建設された。しかし、先住民の攻撃などのためラ・プラタ地域の植民地の中心は、アスンシオンに移動し、ブエノス・アイレス市の再建は1580年にようやく行われた。アルゼンチンの植民地時代の活動は、アルト・ペルーの銀鉱業への生産物供給を担う形で、北西部を中心に行われた。ペルーから南下した人々により、トゥクマン(1565建設)、コルドバ(1573)、サルタ(1582)などの都市が建設された。ラ・プラタ地域にもアスンシオンから移動した人々によりサンタ・フェ(1573)、コリエンテス(1588)、既述のブエノス・アイレスなどが建設されたが、18世紀末に至るまでアルゼンチンの人口の多くは北西部に集中していた。

 アルゼンチンは、高い文明を有する先住民がおらず、その労働力としての動員も困難であったこと、高価な鉱産資源も発見されなかったことから、宗主国スペインにとって魅力ある地域ではなく、植民地時代を通じて、周辺のペルー、パラグアイ、チリからの人口の移動のほかは人口の増加も少なかった。ただし北西部の地域などでは先住民に対してエンコミエンダ(国王が植民者に征服地の統治を委託する制度)のような制度も実施され、スペイン人と先住民の混血も進んだ。他方、征服の行われないパンパをはじめとする地域では、先住民との戦闘が1883年まで続いた。

 アルゼンチンの政治、経済の中心は、18世紀前半までは、初めトゥクマン、ついでコルドバにあった。しかし、1776年ブエノス・アイレスを首都とするラ・プラタ副王領が設けられたこと、これより先、ペルーの銀生産の衰退が始まる一方、大西洋貿易の拠点としてのブエノス・アイレス港の重要性が増したことにより、政治、経済の中心は同市に移動した。とくに正式に同港を通じての貿易が認められるようになってから人口は急増し、1726年の2200人から1800年には4万5000人となった。またこの間、パンパにおける皮革、干し肉などの生産、輸出も増加した。

 アルゼンチンの独立は、他のスペイン領諸国と同様、直接には1808年のナポレオンのスペイン征服を契機とする。しかしアルゼンチンでは、これに先立つ1806~1807年にイギリスによるブエノス・アイレス侵攻があり、副王は逃亡したのに、アルゼンチン人はよく戦って撃退し、自由と独立の気運が高まっていたことも重要であった。ブエノス・アイレスのクリオーリョ(植民地生まれの白人)たちは、1810年副王を退位させて執政委員会(フンタ)を設立し、さらに1816年には、トゥクマンに各地方の代表が集まり、「リオ・デ・ラ・プラタ合衆国」として正式に独立を宣言した。ついでサン・マルティンの率いる軍は、チリに遠征して同国の独立を助け、さらにペルーに北上して、ベネズエラの独立運動指導者シモン・ボリーバルとともにスペイン軍に対抗した。しかし、ブエノス・アイレスと内陸の各地方、中央集権派と連邦主義派の争いなどの国内の対立は独立後も続き、1826年初代大統領にベルナルド・リバダビアを選出したものの、1829年独裁者ファン・マヌエル・ロサスの登場までは混乱が続いた。

 政情が安定に向かったのは、1868年ドミンゴ・サルミエントが大統領となってからであった。彼のもとでは経済的、文化的進歩がみられ、1880年には長年のブエノス・アイレス州と他の連邦諸州との抗争も終結し、ヨーロッパ移民と外国資本の導入によって温帯農産物輸出国として急速に発展する基礎が築かれた。この発展に伴い、都市化、工業化も進み、20世紀初めにはしだいに都市の労働者、中間層が勢力を強め、1916年イポリト・イリゴージェンの大統領選出で急進党政権が誕生した。20世紀初頭はアルゼンチンの黄金時代であり、第一次世界大戦時には中立を維持して多額の外貨を獲得し、世界有数の富裕国となった。

 しかし、一次産品輸出に依存していたアルゼンチンの経済は、世界恐慌の影響を強く受け、その混乱のなかで1930年クーデターが起こった。翌1931年保守派のフストAgustín Pedro Justo(1876―1943)政権が成立、3代の保守政権が続いたが、第二次世界大戦下では連合国支持をめぐり政変が続き、結局1944年のクーデターで登場したファレルEdelmiro Julián Farrell(1887―1980)政権は翌1945年3月まで日本とドイツに対する宣戦を引き延ばした。この間恐慌後の輸入制限などのもとで工業化が進み、都市労働者の数も増加していたが、ファレル政権のもとで労働大臣となったファン・ドミンゴ・ペロンは労働者の組織化を推進し、1946年にはその支持により大統領に就任した。妻エバ・ペロン(通称エビータ。1952年死去)とともに労働者の保護、社会保障の充実、鉄道など外国資本の国有化、国家主導での工業化の推進など、国家社会主義的政策を実施した。しかし、この政策のもとで不利となった資本家、保守派の反発、教会との対立が強まったうえ、経済状況も悪化して国民の支持を失い、1955年にロナルディ将軍Eduardo Lonardi(1896―1956)のクーデターで失脚した。

 かわって就任したアランブルPedro Eugenio Aramburu(1903―1970)はペロンの政策の一掃と経済の回復に努めたのち、民政移管を行ったが、この選挙で急進党のフロンディシArturo Frondizi(1908―1995)政権が発足した。これに続く1962年の選挙では、ペロン派の勢力拡大を妨げるため、ふたたび軍が介入し、そのもとで国民の支持基盤の弱いイリアArturo Umberto Illia(1900―1983)政権が1963年に発足した。しかし、ペロン派対策、経済政策などで軍の支持を失い、1966年クーデターにより強力なオンガニアJuan Carlos Onganía(1914―1995)政権が発足した。同政権は物価の安定、財政、対外収支の均衡などの経済政策を実施し、成果を得た。しかし軍との対立が強まり、軍は彼を退陣させ、レビングストンRoberto Marcelo Levingston(1920―2015)を大統領に選んだが、結局1971年陸軍司令官ラヌーセAlejandro Agustín Lanusse(1918―1996)が政権についた。同政権は1973年の民政移管を約束するとともに、その際にペロン派を排除しないこととし、その結果カンポラHéctor José Cámpora(1909―1980)が選出され、ついで亡命先から帰国したペロンとその夫人(María Estela Martínez、1931― 。通称イサベル)を正副大統領とする第二次ペロン政権が同年10月に発足した。同政権は穏健な社会主義的、民族主義的政策を実施したが、ペロン派内部の左右対立や極左のテロが強まるなかで1974年7月ペロンが死去し、ペロン夫人が大統領に就任した。しかし、経済情勢の著しい悪化も加わり、1976年3月のクーデターで失脚し、かわって軍のビデラJorge Rafael Videla(1925―2013)政権が発足した。

 ビデラ政権はペロン政権の政策を大きく転換して、貿易、外資導入の自由化、財政均衡などを行い、インフレの抑制、生産の回復に努めるとともに、テロ集団の徹底的弾圧に努めた。しかし自由化政策はかならずしも成功せず、1981年に発足したビオラRoberto Eduardo Viola(1924―1994)政権下では激しい為替(かわせ)切下げを余儀なくされた。同年12月に発足したガルティエリLeopoldo Fortunato Galtieri(1926―2003)政権は翌1982年4月フォークランド諸島を一時占領したが、イギリス軍に敗れて撤退し(フォークランド戦争。マルビナス戦争ともよぶ)、この戦争で経済状態はいっそう悪化し、同年7月ビニョネReynaldo Benito Bignone(1928―2018)政権が発足した。

 敗戦による権威の失墜および累積債務危機に直面した軍部は、1984年までに民政移管を行う旨を発表し、政治活動を解禁、政党基本法を公布した。1983年10月に大統領選挙が行われ、急進党のラウル・アルフォンシンRaúl Ricardo Alfonsín(1927―2009)が52%を獲得し、ペロン党に大差で(38%得票)勝利し、大統領に当選した。同年12月に発足したアルフォンシン政権は、民主主義体制の確立と軍政時代の人権問題の解決など、困難な政治的問題に取り組むとともに、ハイパー・インフレーション(超インフレ)や累積債務問題の解決に取り組んだ。

 インフレは1985年のアウストラル・プラン実施によっていったん沈静化したが、その後ふたたび激化し、1989年には物価上昇率が年率5000%に加速した。このため1989年5月の大統領選挙では、ペロン党のカルロス・メネムCarlos Saúl Menem(1930―2021)が当選。アルフォンシンは任期満了の5か月前に辞任し、メネムが同年7月に大統領に就任した。メネム政権は、経済の規制緩和、貿易の自由化、民営化などを中心とする自由主義経済政策を実施し、また、1991年1月からは経済大臣カバロDomingo Felipe Cavallo(1946― )の下で、法律によって為替レートを1ドル1ペソに固定する兌換(だかん)法(コンバートビリティ・プラン)を実施し、これによってハイパー・インフレーションは同年中に沈静化した。

 1991年11月ペロン党と急進党は、憲法改正に関する合意を行い、1994年4月制憲議会議員選挙が実施され、同年5月から8月にかけて制憲議会が開催された。同議会での審議により改正された憲法は、8月から発効した。

 1995年の大統領選挙でメネムは再選、民主主義の確立につとめるも、政府の汚職が批判を集めた。1999年の大統領選挙では野党連合「同盟」のフェルナンド・デラルアFernando de la Rúa(1937―2019)が当選。しかし、財政赤字解消のための政策がふるわず、3年以上にわたる景気後退や約1320億ドルに及ぶ公的債務を抱え、同国は経済危機に直面。2001年12月、生活物資を求める住民による暴動が広がり、主要閣僚が辞任、デラルアもまた辞任を余儀なくされた。同月23日、臨時大統領としてペロン党のアドルフォ・ロドリゲス・サアAdolfo Rodríguez Saá(1947― )が選出され、25日デフォルト(債務不履行)を実施した。任期は次期大統領選挙が実施される2002年3月となっていたが、その経済政策が反発をかい、就任後8日で辞任に追い込まれた。その後、国内情勢が不安定のまま、副大統領エドゥアルド・ドゥアルデEduardo Alberto Duhalde(1941― )が大統領に就任した。2003年4月に行われた大統領選挙ではペロン党から元大統領メネム、ネストル・キルチネルNéstor Carlos Kirchner(1950―2010)ら3人の候補が出るなど乱立し、5月キルチネルが当選、就任した。

[細野昭雄]

政治

現行憲法は、1994年にそれまで有効であった憲法の大幅な改正を行って制定されたものである。アルゼンチンは連邦制をとり、1連邦市と23州からなる。立法府は二院制で下院は連邦市と23州からなる24の選挙区で、選挙区ごとに人口比を基本として定数が配分され選出される257名の下院議員により構成される。上院は連邦市と23州から3名ずつ選出される72名の議員によって構成される。下院議員の任期は4年で半数が2年ごとに改選される。上院議員の任期は6年で2年ごとに議員の3分の1が改選される。18歳以上の国民は選挙権を有し、また、被選挙権は下院25歳以上、上院30歳以上となっている。連邦制の下で各州が州憲法を有しており、任期4年の州知事の選出は直接選挙で行われる。州議会は州によって異なり、一院制または二院制をとっている。大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は4年、連続再選は一度だけ可能となっている。大統領府のほか、内務省、外務・貿易・宗務省、経済・生産省、司法省、厚生省、教育・文化省、労働・社会保障省、国防省、社会開発省および連邦計画公共投資省があり、閣僚は大統領によって任命される。司法権は最高裁判所および下級裁判所にあり、これらの判事は上院の同意を得て大統領により任命される。国の裁判所のほか、各州に高等裁判所および下級裁判所がある。大統領が軍の最高指揮官であり、国防省の下に陸海空の三軍が置かれている。民政移管後軍の規模は縮小され、陸軍4万1400人、海軍1万6000人、空軍1万2500人の兵力となっている(2002)。

 アルゼンチンの外交政策上の特徴としては、かつてはイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との結び付きが強く、また、米州内における指導的地位を占める一国として、ブラジルに対する対抗意識や、アメリカとは距離を置く政策などがみられた。しかし、1982年のフォークランド諸島(アルゼンチンではマルビナス諸島とよぶ)を巡る戦争(フォークランド戦争)以降、中南米諸国との連帯を強め、また、アメリカとの協調を重視する政策を強めている。とくに従来対抗意識の強かったブラジルとの関係が大きく変わり、1991年には同国およびパラグアイ、ウルグアイとの4か国で南米南部共同市場(MERCOSUR(メルコスール))設立条約を結び、1995年から同共同市場が発足した。チリとはビーグル海峡の3島の帰属を巡る対立が続いていたが、1991年に同国との間で合意が成立し、さらに1996年にはチリがMERCOSURに準加盟することとなった。また、中南米主要国とリオ・グループ(中南米18か国の政策協議機関)を結成し、これら諸国と外交面での協調体制をとっている。

[細野昭雄]

経済・産業

1982年のフォークランド戦争と深刻な累積債務危機の影響を受けたアルゼンチン経済は、その後「失われた十年」を経験し、低成長とインフレに悩まされたが、1991年以降にいったん回復がみられた。1980年代(1980~1989年)に平均年率-0.3%と著しく低迷していた経済成長率は、1991年から1996年の平均で年4.7%と回復した。また、消費者物価上昇率は1980年代前半(1980~1984年)年平均180.8%、同後半(1985~1989年)年平均261.7%と激しいインフレが続き、さらに1990年には1343.9%と高い水準にあったが、1991年に導入された1ドル1ペソに固定する兌換(だかん)法の下で、同年84.0%に低下した。さらに、その後1993年には一桁(けた)台となり、1996年には0.4%に低下して、インフレの抑制に成功した。しかし、1999年のブラジルのレアル切下げや、アジア経済危機の影響もあり、固定相場制を維持するペソの国際競争力は失われていった。2001年には財政赤字拡大により対外債務の支払い停止を宣言、同時に預金引出しの制限措置等を行ったため、国民の反発を買い、各地で暴動が発生した。翌2002年に変動相場制へと移行、国際通貨基金(IMF)との交渉、民間債務の再編等を通じて経済再建を図っている。国内経済は回復基調にあるが、消費者物価上昇率は2003年の3.7%から2005年12.3%となり、インフレの懸念が高まっている。失業率は他国に比べ高く、都市失業率は1995年の18.8%から経済危機を迎えた直後の2002年には19.6%に上昇、その後15.6%(2003)と推移している。

 アルゼンチンの今日の社会経済構造の重要な部分は、1870年代以降のパンパにおける農牧業の急速な発展によって形成されたといっても過言ではない。それ以前100万人にも満たなかった人口は、農牧業を支えるためのヨーロッパからの移民の定住によって、1914年には800万人を超えた。この国が短期的に世界の穀倉の一つとなった基本的要因は、ほとんど未開発の状態であった広大で肥沃(ひよく)なパンパが、世界の温帯農畜産物(小麦、牛肉)需要の急増に対し、大量の資本と労働力の導入によって速やかに供給の条件を整えたこと、鉄鋼の大型船舶の利用や鉄道の発達などの輸送技術の進歩があったことによる。このような農牧業を中心とする発展は、1929年の世界恐慌まで続いた。その後は保護貿易下での輸入代替工業化が推進され、産業構造も多様化し、第二次世界大戦後は重化学工業化も進んだが、農産物輸出に外貨獲得を依存する構造は、基本的には変わっていない。

 アルゼンチンは肥沃な農地のほか、石油、天然ガス、銅などのエネルギー・鉱物資源、水産資源などに恵まれている。また、最近はアンデス山脈に銅、金などの非鉄金属の開発が進み、アルンブレラ鉱山ほか多数のプロジェクトが進行している。石油の埋蔵量は3億9300万立方メートル、天然ガスの埋蔵量は5534億立方メートル(2004)に達し、エネルギー資源も豊富である。また、ヤシレタ発電所(パラグアイとの共同プロジェクト。1994年稼動開始)をはじめ、大型の水力発電所も建設されている。アルゼンチンは広大な大陸棚を有し、とくにパタゴニア沖には豊かな水産資源が存在している。

 農牧業は国内総生産に占める割合が11.1%、農産物輸出額が総輸出額の47%(2003)と、この国の経済にとっての重要性は高い。アルゼンチンは2003年時点で1億2875万ヘクタールに上る農牧畜面積を有し、約5000万ヘクタールの森林を有している。牛の飼育頭数は5077万頭と人口の1.4倍にも達し、また、1245万頭のヒツジが飼育されている(2005)。主要農産物はサトウキビ(2003年生産量1925万トン)、トウモロコシ(1504万トン)、小麦(1453万トン)などの穀物のほか、大豆、ヒマワリなどの搾油用作物の生産も盛んであり、とくに大豆の生産(3480万トン)の増加が顕著である。

 アルゼンチンの農牧業の特徴の一つは、エスアンシアとよばれる大農場からなる土地所有制で、農場数で全体の0.8%の大規模農場(平均面積8000ヘクタール)が農牧地全体の約40%を占める。このほか42万に上る中小規模の農場での生産も行われている。一般に、大農園では生産的投資はあまり行われず、また肥料もほとんど用いない粗放的経営が行われているため、長期的にはアルゼンチンの農牧畜生産は伸び悩んでいる。この影響で同国の輸出の世界市場に占める割合は低下してきている。パンパにおける穀物、牛肉生産のほか、北東部ではサトウキビ、米の生産が行われ、また、アンデス山麓(さんろく)では果実およびワイン用ブドウの栽培などが行われている。

 工業化は19世紀末から開始され、農畜産品の加工品、皮革製品、綿、羊毛の繊維品からしだいに多様化した。とくに1930年代以降は輸入制限が強まり、国内製造業が保護されたこと、ペロン政権下で国家主導の工業化が推進されたことにより、工業生産が拡大した。なかでも1970年代初めまでに鉄鋼、自動車、石油化学などの分野が発展し、重化学工業化が進み、国内総生産に占める製造業の割合は35%以上に達した。しかし、1970年代後半に入り、ビデラ政権が貿易自由化政策を開始したことや、インフレが加速したことなどから、工業は深刻な影響を受けた。1982年の累積債務危機でふたたび輸入制限は強化されたものの、メネム政権に至って本格的な自由化政策が実施され、製造業の国内総生産に占める割合は27%にまで低下した。しかし、この間鉄鋼、化学、石油化学などの資本集約型の基礎素材産業は競争力を強め、輸出を拡大した。また南米南部共同市場(MERCOSUR(メルコスール))の発足によりブラジルとの広域市場が実現し、自動車産業をはじめ製造業への新たな投資の拡大もみられる。

 総輸出額は2004年には345億ドルに達し、主要輸出品は農畜産物加工品、穀物、燃料、鉱石である。総輸入額は223億ドルで、主要輸入品は機械、化学製品、輸送用機器である。アルゼンチンの近年の貿易収支は1997~1999年に赤字となったが、2000年より黒字が続いている。

 アルゼンチンの貿易相手国としては、MERCOSUR域内貿易の拡大によって、とくにブラジルの重要性が高まってきている。2002年の輸出相手国としてはブラジルが輸出額の19%を占め、これにチリ(12%)、アメリカ(12%)が続き、スペイン、中国、オランダがそれぞれ4%を占めている。輸入もブラジルが最大の相手国で、輸入額の30%近くを占め、これにアメリカ(21%)、ドイツ(7%)が続き、中国、日本、イタリアもそれぞれ4%(2002)を占める。

 アルゼンチンは小麦、牛肉の輸出に向けての国内各地からの貨物輸送のために、イギリス資本により鉄道が発達し、世界有数の鉄道国となった。しかし、ペロン政権時代に鉄道が国有化され、施設の老朽化が進んだことなどもあって、しだいに道路輸送が中心となり、今日ではバス、トラックによる輸送が高い比重を占めている。道路の総延長は21万5471キロメートルに達し、鉄道の総延長は3万3000キロメートルに達する。主要港湾としては、ブエノス・アイレス港をはじめとするラ・プラタ川などの河川の港湾や、バイア・ブランカ港などがある。国内航空網も発達し、最近民営化されたアルゼンチン航空ほか数社が運航している。

[細野昭雄]

社会

アルゼンチンにおける人種構成は、先住民や黒人およびその白人との混血が多数を占める他の中南米諸国と異なり、混血がチリ、ボリビア、パラグアイとの国境周辺地域に多いほかは、白人が人口の大部分を占めている。これは1870年代以降の移民の定住によるもので、その数は1940年までに350万人に達したとされる。これら移民の出身地別ではイタリア人、スペイン人が多く、ほかにポーランド人、フランス人、ドイツ人などからなる。ユダヤ系住民も多く、またレバノン、シリア出身の住民も少なくない。主要言語はスペイン語であるが、その話し方にはイタリア語の強い影響がみられる。宗教の自由は認められているが、国民の約90%はカトリック教徒であり、ほかにプロテスタント、ユダヤ教徒などもいる。カトリック教は、この国の社会に強い影響を与えている。

 人口増加率は1.3%とラテンアメリカ諸国のなかでは低い(1992~2002)。総人口3626万人に対する都市人口の比率は89.3%に達する(2001)。とくにブエノス・アイレス都市圏への集中が著しく、同市の人口は1205万人(2001)に達し、総人口の約33%に達する。1人当り国民総所得(GNI)は3580ドルと近年低迷しているが、繁栄期の蓄積もあって一般に住宅、公共施設は整っており、それらは病院や上下水道の普及などにもみられる。伝染病もほとんどなく、幼児死亡率も低い(1000人当り16人、2001年)。また食糧輸出国であることもあって、カロリー、タンパク質摂取量が高い。労働者の賃金は、高い失業率を反映して低迷しており、経済・金融危機下にあった2001年を100とした民間企業労働者の賃金指数の水準は、2002年には83.3にまで落ち込んだ。現在は104.6(2005)の水準にまで復活している。アルゼンチンはペロン政権以来、労働者の組織が強いことで知られていたが、軍事政権下でその運動が厳しく制限されたことや、メネム政権の下での自由主義経済政策の実施により、労働組合の影響力はかなり低下した。

 教育の普及は、中南米諸国のなかでもっとも進んでおり、成人識字率は96.9%(2001)、初等教育の就学率は100%であり、中等教育の就学率は男子では1980年の52%から2001年の97%へ、女子では60%から100%へと上昇している。また、高等教育の就学率は80年の22%から2001年には56%に上昇した。義務教育である初等教育は5歳から15歳までの10年間で、無償である。大学はブエノス・アイレス大学、コルドバ大学をはじめとする33の国立大学と42の私立大学がある。なお、初等、中等教育における就学率は高まっているが、初等教育および中等教育中退者の比率が比較的高いなどの問題も指摘されている。

[細野昭雄]

文化

アルゼンチンは移民の国であり、しかもその定住が本格的に進んでから100余年しか経ていないことから、その文化には、植民地期のスペインの文化と移民のイタリア、フランスなどの文化の影響が強い。コロン劇場が世界三大オペラ劇場の一つとして知られるように、またブエノス・アイレスが「南アメリカのパリ」とよばれるように、アルゼンチンはラテンアメリカにおいてもっともヨーロッパ的な文化の国である。しかし、パンパの近代的農牧業発展の前のガウチョ(牧童)の伝統や、音楽におけるタンゴのように、アルゼンチン独自の文化的要素もある。スポーツは盛んで、サッカーは国民的スポーツとなっており、ワールドカップでは過去2回優勝している。アルゼンチンの主要新聞としては、発行部数のもっとも多い『クラリン』紙をはじめ、『ラ・ナシオン』紙、『ラ・クロニカ』紙や経済紙の『アンビト・フィナンシエロ』紙などがある。テレビも普及しており、5局のテレビ局があるほか、ケーブルテレビの普及が進んでいる。

[細野昭雄]

日本との関係

1898年(明治31)調印の修好通商条約以来、友好的関係が続き、日露戦争時には日本に軍艦(「日進」「春日(かすが)」)を譲渡したり、第二次世界大戦でも、対日宣戦布告は1945年(昭和20)3月まで行わなかった経緯がある。1952年復交した。日本からの移住も1907年(明治40)以来行われており、戦前には5400人が移住し、戦後も国際協力事業団を通じての移住や呼び寄せ移住が行われていた。日系人、在留邦人数は約3万人に達する。

 日本とアルゼンチンとの貿易は2001年の経済危機以来停滞しており、日本からの輸出額は1989年の1億8000万ドルから、1992年の7億1000万ドルに増加したが、2004年は4億3600万ドルとなっている。輸出の9割は重化学工業品であり、とくに電子機器や自動車などの機械機器が中心となっている。アルゼンチンからの輸入額は、1989年の4億2000万ドルから、1992年の5億2000万ドルへと増加したが、2004年は4億5500万ドルとなった。おもに、トウモロコシなどの飼料作物、エビ、イカなどの魚貝類などの食料品を輸入しているが、近年銅鉱石やアルミニウム合金の割合が増えている。日本企業のアルゼンチンへの直接投資は少ないが、ホテル建設への投資が行われたほか、自動車分野への投資が進められている。また、毎年「日本・アルゼンチン経済委員会」が開催されている。

 一方、国営石油公社(YPF)への融資など、日本からの各種の資金協力が行われてきているが、1993年にはアルゼンチンの債務削減のためのブレイディ・プラン(「新債務戦略」)適用のための資金協力も行われた。技術協力も多様な分野で行われてきており、1983~1986年には「アルゼンチン経済開発調査」が実施され、その報告は「大来(おおきた)リポート」とよばれ、アルゼンチンの経済社会開発に関する基本的な助言を与えた報告書として高く評価された。さらに、環境分野や漁業分野における協力も行われている。

[細野昭雄]

『P・E・ジェームス著、山本正三・菅野峰明訳『ラテン・アメリカⅡ』(1979・二宮書店)』『S・E・モルフィーノ著、細野昭雄訳『全訳世界の地理教科書シリーズ 30 アルゼンチン――その国土と人々』(1980・帝国書院)』『日本貿易振興会編『アルゼンチン』(1988・同会刊)』『加賀美充洋・細野昭雄著『ラテンアメリカの産業政策』(1991・アジア経済研究所)』『細野昭雄・畑恵子編『ラテンアメリカの国際関係』(1993・新評論)』『日本アルゼンチン交流史編集委員会編『日本アルゼンチン交流史』(1998・日本アルゼンチン修好100周年記念事業組織委員会)』『グレッチェン・ブラットフォルド著、大谷藤子訳『目で見る世界の国々58 アルゼンチン』(2001・国土社)』『アルベルト松本著『アルゼンチンを知るための54章』(2005・明石書店)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「アルゼンチン」の意味・わかりやすい解説

アルゼンチン
Argentine

基本情報
正式名称=アルゼンチン共和国República Argentina 
面積=278万0400km2 
人口(2010)=4052万人 
首都=ブエノス・アイレスBuenos Aires(日本との時差=-12時間) 
主要言語=スペイン語 
通貨=アルゼンチン・ペソArgentine Peso

南アメリカ大陸の南東部に位置する連邦制共和国。新大陸の探検時代に到来したスペイン人が,当地に住む原住民の銀の装身具にちなんで国土の中央部を流れる大河をラ・プラタ(スペイン語で〈銀〉の意)川と命名,同川流域一帯はラ・プラタ地方と呼ばれるようになった。スペインからの独立後はラ・プラタと同義のラテン語起源のアルヘンティーナ(英語でアルゼンチン)が国名として採用され,1826年憲法でアルゼンチン共和国の名が初めて正式に用いられた後,60年正称と決定された。国土面積は日本の約7.5倍でブラジルに次ぐラテン・アメリカ第2位,世界第8位の広さを有するが,人口は日本の約1/4にすぎず,人口密度は12.5人/km2(1996)である。日本から見てほぼ地球の反対側にあり,季節も日本とは逆になっている。

国土は南北の長さ3694km,東西の最大幅1420kmである。国境は東・北側がラ・プラタ川およびその支流によってウルグアイ,ブラジル,パラグアイ,ボリビアと,西・南側はアンデス山脈によりチリと接し,東・南側は大西洋と南極の海に臨んでいる。

 西側に第三紀の褶曲山地であるアンデス山脈が走り,東方に広大な平原パンパが広がる。アンデス山地,ブラジル高原に源を発するウルグアイ,パラナ,パラグアイ,サラド川などの支流を合わせてパンパを貫流するラ・プラタ川は,豊かな水資源と交通の便を提供する。ほかにコロラド,ネグロ,チュブ川などの主要河川がある。地勢上は北部のメソポタミア平原,チャコ低地,西部のアンデス山脈,中央部のパンパ,南部のパタゴニアの五つに区分される。メソポタミア平原はパラナ川とウルグアイ川にはさまれ,ラテライト,チェルノーゼムなど肥沃な土壌に恵まれている。チャコ低地はパラグアイ国境に近い亜熱帯の低湿地帯で,草原,密林,氾濫原,沼沢などが続く。アンデス山脈地帯の主要部分は標高4000mから5000mの山稜をなし,アコンカグア(6960m),トゥプンガト(6800m)などの巨峰がそびえ立つ。南部へ行くに従い高度は低下するが高緯度積雪地帯となる。パンパは標高200m以下の60万km2に及ぶ大平原で,チェルノーゼムと栗色土から成る厚い肥沃な土壌に恵まれている。コロラド川以南のパタゴニアはパタゴニア台地,アンデス前山脈低地,パタゴニア山脈から成り,第四紀の大氷河期にできた盆地や湖が点在,アルゼンチン湖水地方,ナウエル・ウアピ湖などの氷河は世界有数の美観を呈している。

 気候は亜熱帯,温帯,乾燥帯,寒冷帯の四つに大別される。降雨量はアンデス東山麓とパタゴニア地方で年間250mm以下,パンパ地方で500~1000mm,北東部のミシオネス州の一部では1700mmを超える。また,アルゼンチンは自然・経済条件に従い通常五つに地域区分される。北東部(ミシオネス,コリエンテス,フォルモサ,チャコ各州とサンタ・フェ州の一部),北西部(サルタ,フフイ,トゥクマン,カタマルカ,サンチアゴ・デル・エステロ各州とコルドバ州の一部),クーヨ(サン・フアン,メンドサ,ラ・リオハ,サン・ルイス各州),パンパ(ブエノス・アイレス,サンタ・フェ,エントレ・リオス,コルドバ,ラ・パンパ各州),パタゴニア(ネウケン,リオ・ネグロ,チュブ,サンタ・クルス各州とフエゴ島)である。
執筆者:

ラテン・アメリカのなかでは例外的に白人の比率が高く,総人口の圧倒的多くは白人系で,インディオ系は1960年から70年にかけて実施された先住民人口調査では約50万ほどであった。黒人人口はさらに少なく,1万人以下と推定されている。こうした独特の人種構成が形成された第1の要因は,スペイン人の渡来前からこの地域にはインディオ人口が少なかったことである。インディオ文明はおもに山間の高地に発展し,パンパのような低地は,少数の遊牧・採集民が散在するだけだった。第2に,スペインの植民地時代に貴金属を産出せず,砂糖などの熱帯農業もあまり発展しなかったアルゼンチンでは,インディオや黒人の労働力に依存することが少なかった。第3の要因は,こうした状況の下で19世紀後半以降,イタリア,スペインなどから大量の移民が流入したことである。1861年から1960年までに国内に定着した外国移民は約520万に達し,全人口に占める外国人の比率は1914年には29.9%となり,同年ブエノス・アイレス市では49.3%だった。19世紀後半以降のこの急激なヨーロッパ移民の到来が,今日見るような白人中心の人種構成を生み出している最大の要因といえよう。インディオ人口のうち,パタゴニア地方では,社会との接触が少なく,自給自足的な生活を営む部族も少なくないが,フフイ,サルタ,フォルモサ,チャコのように,北西部の諸州では農業労働者として,農場に雇用されている人も多く,南部よりも社会的同化が進んでいる。言語はスペイン語だが,スペイン本国の文法とはやや異なり,たとえば2人称にtúではなく,vosを使っている。

 上述したヨーロッパ移民の大量流入は,社会構造や文化のあり方を少なからず規定してきた。外国移民の多くが都市部に定着したので,早くも1914年に都市人口は53%に達し,現在(1991)でも87%弱に及んでいる。また,外国移民は上方移動志向が高く,実際に下積みから中産階級へと上昇するケースが少なくなかったので,アルゼンチンはラテン・アメリカのなかでは,早くから中産階級の比率が高くなり,すでに1914年に33%ほどに達していた。近年は,失業率の高騰といった厳しい経済状況が中産階級を直撃し,その比率が若干低下しているが,それでも1990年代の半ばで,中産階級がなお,人口の4割ほどを占めていると推測されている。また,外国移民の多くが上方移動を果たしてきたことは,社会的流動性を高め,今日でも下層から中産階級への移動は,比較的容易である。ただし,その反面,中産階級から上層への移動は難しく,ここに社会的流動性の限界がある。

 文化の面でもヨーロッパ移民の影響は大きく,社会全体に西欧的雰囲気が顕著である。宗教の面でも西欧のカトリシズムがそのまま受容され,他のラテン・アメリカ諸国に多いインディオの土着宗教やアフリカの宗教とのシンクレティズム(混淆)は,あまり見られない。教育水準も比較的高く,識字率は1995年には96.2%と,ラテン・アメリカではトップクラスにある。大学進学率も高く,1991年には11.4%だった。ブエノス・アイレス大学やコルドバ大学などは,以前は南米の学問をリードする立場にあったが,近年は財政危機などで教育・研究予算が減少し,ブラジルやチリの追い上げを受けている。なお芸術分野については〈ラテン・アメリカ音楽〉〈ラテン・アメリカ美術〉〈ラテン・アメリカ文学〉の各項を参照されたい。

1853年憲法に基づき,アメリカ合衆国に似た大統領制,二院制議会,三権分立,連邦制をたてまえとしているが,実際には行政府に権力が集中しており,また中央政府が州政府に頻繁に介入している点でアメリカよりも中央集権的である。1853年憲法が大統領に広範な権限を賦与したのは,強力な行政府の存在が政治の安定には不可欠とみなされたからであり,同憲法の下で1862年から1930年までは近隣諸国の追随を許さぬ政治的安定が保たれてきた。ところが,1930年のクーデタを機に,軍の政治介入が頻発し,近年は慢性的政情不安に陥っている。こうした政情不安の原因としては,軍部とペロニスモとの角逐,経済停滞に伴う社会的矛盾の激化,大衆の参加意識の高揚,などが指摘される。軍政下では議会が閉鎖され,政党活動が禁止されることが多いため,政治は政党よりもむしろ利益集団によって動かされがちである。

 利益集団のなかで最も古い歴史をもつのは1866年に大地主を主要メンバーとして設立された農牧協会である。国の経済に占める農牧畜業の高い比重を反映して強い政治的影響力を有し,歴代の農業大臣は協会員から選出されることが永らく慣例となっていた。1910年に成立したロケ・サエンス・ペーニャRoque Saenz Peña政府では,正副大統領をはじめ閣僚8名のうち6名が協会員で占められたほどであった。工業化の進展で近年その政治力は低下しつつあるが,今日なお経済政策の決定に隠然たる影響力を保持している。工業企業家の組織には1887年設立の工業連合と1952年に設置された経済総連合(CGE)などがあり,前者は大企業を中心とした連合体で外資の導入に積極的なのに対し,後者は,中小企業を多数擁していることもあり,民族主義的で外資に対してより批判的である。CGEはペロニスタ政権の庇護を受けて発足したことから,ペロニスモとの結びつきが強く,反ペロニスタ政権の下ではたびたび活動を禁止されてきた。アルゼンチンの政治の重要な特色は企業家連合よりもむしろ労働組合の政治力の方が強大なことであり,その中核をなしているのが労働総同盟(CGT)である。1930年に設立された当時は,メンバーは10万程度であったが,ペロン大統領時代(1946-55)に急成長を遂げ,50年代には300万近くに達した。以来CGTはペロニスモの強い影響下におかれ,CGTの指令するゼネストや工場占拠を含む実力行使は,たびたび歴代の反ペロニスタ派政府を窮地に陥れてきた。76年3月大統領に就任したビデラは,CGTの政治力の削減に腐心し,79年11月新労働組合法を制定して労働組合の政治活動を禁止し,CGTを解体させた。しかし翌年9月CGTが新しい形で再発足し,83年現在は,穏健派でブエノス・アイレス市内のアソパルド街に本拠をもつCGTアソパルド派と,事務局をブラジル通りにもつCGTブラジル派とに二分されている。

 こららの諸組織は特定の経済利益を代弁する圧力団体であるが,これに対し,より広範な社会層の利益を集約化する機能を果たしているのが,軍部や教会,政党などである。軍部は19世紀後半から専門化が進み,1901年には徴兵制が施行され,永らく政治非介入政策を採ってきたが,ファシズムなどの影響を受けて政治への関心を高め,30年9月クーデタに踏み切った。これ以後軍部は,直接・間接に影響力を政治に行使しており,とくに近年の著しい特徴は,軍制が長期化しつつあることである。これは文民派のテクノクラートの支持を得た軍部が,上から強権的に経済や政治の変革を企図しているからであり,この体制はたびたび〈官僚主義的権威主義〉とも呼称されている。アルゼンチンの軍部は一般に保守的傾向が強く,大土地所有層が軍政の主要な支持基盤となる場合が多いが,労働者階級の政治力の強大化に危惧を抱く中産階級も,ペロニスタ政権よりは軍政を選好する傾向にある。軍部と同様にカトリック教会も一般に保守的だが,1960年代から70年代初めにかけ司教団の一部は社会変革を唱える第三世界運動に身を投じ,76年の軍政出現後は,教会全体が軍政下での過酷な人権抑圧に反対し,民主化を強く求めた。

 政党運動は古い歴史をもち,19世紀末から1930年までは地主層をバックとする保守党と中産階級を支持基盤とする急進党との二大政党体制が採られ,少数党ながら社会党が一部の労働者の支持を得ていた。ペロニスモの出現後,こうした状況には大きな変化が生じ,保守党が退潮する一方,急進党が保守派の一部の支持を得てペロニスモに対抗しうるほとんど唯一の勢力となった。ペロニスモは労働者階級の支持をバックに,一部の上・中流階級からも支援され,今日なお国内最大の政党といえるが,内部ではさまざまなグループに分裂している。73年3月の大統領選では,ペロニスモを中心とする選挙連合(正道党解放戦線)が国民投票の49.56%を獲得し,急進党が21.29%であった。
執筆者:

貴金属や熱帯産品を産出しないアルゼンチンは,植民地時代,スペインの新大陸支配において周辺的な位置におかれていた。独立後半世紀に及ぶ自由貿易主義と保護貿易主義の対立を経て,1853年共和国憲法に自由経済路線が盛られ,アルゼンチンは国際分業の一環を担い農畜産物輸出経済を育成していった。その間資本,技術,工業製品,労働力が広くヨーロッパに求められた。イギリスをおもな出資国とする外国資本のかなりの部分は,鉄道など社会的間接資本の建設に投下され,57年アルゼンチン初の鉄道が開通,その後ブエノス・アイレス港をかなめとする放射線状の鉄道網がパンパを中心に拡大されていった。積極的な移民受入政策によりイタリア,スペインなどヨーロッパからの移民が大量に入国し,おもにパンパの農牧業に従事した。この間総人口は1869年の189万7000人から1914年の816万2000人に急増した。生産・輸送面でヨーロッパからの技術導入が進み,農牧業生産技術の普及をめざす農牧協会が1866年に創設された。80年代の冷凍船(フリゴリフィコ)の実用化は,従来の乾肉にかわって冷凍肉の輸出を可能にした。小麦,トウモロコシ,亜麻,食肉,羊毛を主とする輸出の急増はこの国を世界の食糧庫にかえ,農牧業は〈パンパの革命〉と形容されるほど急激な成長を遂げた。農畜産品の輸出競争力は土地の粗放的経営に支えられ,大土地所有制度が広範囲に拡大していった。その過程で自作農への道を閉ざされた人々は,借地農や農牧業労働者として農村にとどまる一方,他方では農村から都市へ流出し,また19世紀末ごろからは出稼ぎ型のヨーロッパ移民ゴロンドリーナ(季節労働者)も増加していった。

 農畜産品輸出に依拠したアルゼンチン経済は,1929年恐慌の到来で大きな試練にさらされることになった。世界経済のブロック化が進む中で,輸出市場の狭隘化に見舞われたアルゼンチンは,一方で33年ロカ=ランシマン協定を締結してイギリス市場の確保に努めると同時に,他方では外貨節約のため輸入代替の工業化を推進した。さらに資源ナショナリズムの萌芽として1922年に創設された国営石油公社を中心に,国内資本による石油開発が進められた。35年には金融制度の整備をめざして中央銀行が創設された。

 第2次世界大戦中および直後のアルゼンチンは,食糧供給国として多額の貿易黒字を累積した。46年に発足したペロン政権はアルゼンチン史上まれにみる経済的好条件に支えられ,ナショナリズム色の濃い政治路線を導入,第1次(1947-51),第2次(1953-55,中断)五ヵ年計画を実施した。〈政治主権,経済的独立,社会正義〉の実現をスローガンに,外国資産の国有化,工業育成,国家主導型経済建設が経済政策の三大支柱とされた。イギリス系鉄道会社,アメリカ系電信電話会社など外国資産が国有化され,社会的間接資本,エネルギー,重工業部門の国営企業が強化され,また手厚い工業保護政策がとられた。

 しかし,こうした工業偏重政策の実施により農牧業の不振,輸出の伸び悩みを招いたペロン政権は,有効な経済政策を提示できないまま55年のクーデタで失脚,その後は軍政と民政の交替があい次いだ。経済自由主義路線が導入された軍政期に対して,民政下ではナショナリズム路線が志向され,とくに急進党出身のイリヤ政権(1963-66),ペロニスタ政権(1973-76)下でその傾向が強まった。ペロニスタ政権は統治力の弱体化と経済政策の失敗から深刻な政情不安と経済問題を抱え,76年3月軍事クーデタで失脚,その後に登場した軍政は経済自由主義に転換した。“過度”の保護政策を除去し,工業生産の効率化を目ざした軍政は,工業の衰退を主因とする経済不況,超高率インフレ,国際収支の悪化,対外債務累積など経済の悪化を招いた。さらに82年4月から6月までのフォークランド(マルビナス)諸島に関するイギリスとの軍事衝突の結果,その戦後処理の問題が加わり,経済面の再建はますます困難さを増した。そして83年12月,ついに民政移管が実現,アルフォンシン急進党政権は経済再建をめざして,85年6月アウストラル・プランを実施に移した。この政策も長期的なインフレ抑制を達成することができず,超高率インフレを再燃させてしまった。
執筆者:

1516年スペイン人として初めてソリスJuan Diaz de Solisがラ・プラタ川周辺を探検した当時,今日のアルゼンチン地域には約33万のインディオが居住していたと推定される。その多くは文化水準の低い,好戦的な遊牧民で,ソリス自身も原住民に殺害され,36年メンドサPedro de Mendozaによって建設されたブエノス・アイレス市も,原住民との抗争から5年後に放棄されている。市の再建は80年のガライJuan de Garayによる遠征を待たねばならなかった。この間ペルーやチリからの移住者の手で北西部と西部の開発が進み,1553年には最古の定住都市としてサンチアゴ・デル・エステロ市が建設された。しかしながら,反抗的なインディオに加えて,貴金属に乏しかったことや本国の厳しい貿易統制などが重なり,16~17世紀を通じて今日のアルゼンチンは比較的開発の遅れた地域にとどまっていた。わずかに牛皮の生産を主軸とする牧畜業が細々と営まれただけであった。

ところが1776年に今日のアルゼンチンを中心に,ボリビア,パラグアイ,ウルグアイを含む広大な地域がリオ・デ・ラ・プラタ副王領として組織化された頃から地域の経済はにわかに活況を呈し始めた。なかでも副王領首都となったブエノス・アイレス市の港が本国との交易に開港されたことから,ヨーロッパ産品とパンパ畜産品との中継港として急成長を遂げた。しかし廉価な外国商品の流入により大打撃を受けた内陸部では港への反感が高まっていた。こうした地域間の対立が深まるなかで副王領内では啓蒙思想などの影響を受け,独立への志向がしだいに芽生え,とくに1806-07年にかけ副王領東部に対して試みられたイギリスの侵略を現地軍が打破したことは自治意識を著しく高めた。そしてナポレオンの侵略に伴う母国の混乱に乗じて10年5月25日,ブエノス・アイレス市の市議会は副王を廃し自治委員会の設置に踏み切った。だが,首都への反感などから,今日のパラグアイ,ウルグアイ,ボリビアの諸地域は委員会の権威を認めず,自治政府と戦端を開いた。この戦争が結果的に上述の諸地域をアルゼンチンから分離・独立させることになるのだが,副王領内の多くの州は16年7月9日トゥクマン市で開かれた議会でリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の独立を宣言し,独立戦争の遂行をサン・マルティンJosé de San Martín将軍にゆだねた。サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。以後ブラジルとの交戦期(1826-28)を除き永らく中央政府不在の状態が続くが,連邦派のブエノス・アイレス州知事ロサスJuan Manuel de Rosas(在職1829-32,35-52)は,軍事力を背景に州内外の中央集権派を弾圧して事実上の国家統一を達成した。また同政府の打倒を目指した40年代の英仏両国による軍事干渉にも頑強に抵抗して撤兵をよぎなくさせた。しかしロサスの過酷な独裁政治には国民の批判が絶えず,52年ウルキサJusto José de Urquizaとの戦闘に敗れ失脚した。

ウルキサは翌年憲法を制定して近代的統一国家の実現を目指したが,ブエノス・アイレス州の離反にあって果たせず,62年同州知事ミトレが大統領に就任することでようやく全国的な統一国家が誕生した。ミトレに始まる歴代政府は外国移民の誘致と外資導入,教育の拡充を骨子とした開放的な近代化政策を採り,サルミエント大統領(在職1868-74)は教育の普及に功績をあげ,次のアベジャネーダN.Avellaneda(在職1874-80)は彼の名を冠した土地法を制定して外国移民の土地取得を容易にする一方,パンパからインディオを追放して農牧地を飛躍的に拡大した。80年ブエノス・アイレス市が正式に連邦の首都とされたことで,積年の地域間の対立には終止符が打たれ,この頃よりイタリア,スペインなどからの移民が急増し,大量のイギリス資本が鉄道や食肉加工業などに導入された。労働力と資本,輸送手段を得た農牧業はめざましい発展を遂げ,20世紀初葉には世界屈指の農畜産物輸出国に成長した。この未曾有の発展は地主層の経済的支配権と政治力を高めた反面,彼らによる政治の独占に反対する中産階級の台頭を促し,中産階級の一部は選挙制度の改革を唱えて政治の民主化を要求し始めた。1891年にはこうした主張を掲げた急進市民同盟(急進党)が産声をあげ,93年と1905年の2度に及んだその武装蜂起は保守支配層を震撼させた。このため,保守派も譲歩して12年には民主的な選挙法(ロケ・サエンス・ペーニャ法)が制定され,同法の下で実施された16年の最初の大統領選では急進党のイリゴージェンが勝利を収めた。イリゴージェンは22年に国家石油公社(YPF)を設立して経済的民族主義の方向を打ち出したほか,労働者のための年金制度の拡充や大学制度の改革を行ったが,28年発足した彼の第2期政権は世界恐慌によって引き起こされた経済混乱に敏速に対応できず,30年9月6日ウリブルJ.F.Uriburu将軍のクーデタにより崩壊した。

 ファシスト体制の樹立を目ざしたウリブル軍政が短命に終わったあと32年には保守派主導の民政が復活する。30年代の保守支配層は選挙を不正に操作して国民の政治参加を抑制し,経済的にはイギリスとの結び付きを一層深めていった。なかでも33年のロカ=ランシマン協定は,冷凍肉の対英輸出量の保障と引換えにイギリス資本に特恵待遇を約していたため,植民地化につながるとして国民の間から激しい批判を浴びた。

民族主義的自覚が高まり,選挙不正に対する国民の批判が強まるなかで,43年6月4日軍のクーデタが勃発した。このクーデタの主謀者格の一人だったペロン大佐は,同年10月労働局長(のちに労働福祉庁長官)に就任すると,保守支配体制の下で抑圧されていた労働者の諸要求を次々と実現し,彼らの支持をバックに軍事政府随一の実力者にのし上がった。また第2次大戦中に軍事政府の採った中立的外交がアメリカとの対立を深めると,アメリカの圧力に抗する民族主義者として自らを国民にアピールした。こうした一連の政策は彼の人気を高め,46年2月の大統領選で大勝を博した。大統領時代(1946-55)のペロンは工業化,鉄道などの国有化,自主外交,労働者保護など独自の政策を展開したが,農牧業の停滞から経済政策で行き詰まり,加えて54年末カトリック教会と全面的な対立関係に入ったことが命取りとなり,55年9月軍の蜂起に接し国外に亡命した。

ペロンの退陣後,ペロン派(ペロニスタ)と反ペロン派との間で熾烈な対立が生まれ,政情は極端に不安定となった。58年にペロニスタの支持を得て民選されたフロンディシArturo Frondizi大統領はペロン派の勢力拡大を恐れる軍部の手で62年に打倒され,66年にはイリヤArturo Illia大統領がほぼ同様な理由から失脚し,オンガニアJuan Carlos Onganía将軍の率いる軍政にとって代わられた。この軍政は,労働者とペロニスタを徹底的に弾圧し,インフレの克服と経済開発を図ったが,部分的にしか成功を収めず,軍政に対する国民の批判が高まるなかで,73年3月民政移管のための選挙が行われた。この選挙でペロニスタのカンポラHéctor José Cámporaが当選するが,彼の急進主義は党内外の批判を浴び,73年9月の再選挙を通じてペロンが18年ぶりに政権の座に返り咲いた。しかし,インフレとゲリラの暗躍に苦悩する祖国を再建するめども立たぬまま74年7月急逝し,夫人のイサベル・ペロンMaría Isabel Martínez de Perónが大統領に昇格した。政治に不慣れなイサベルは数々の失政を重ね,事態を憂慮した軍部は76年3月蜂起してビデラJorge Rafael Videla将軍が大統領に就任した。この軍政は人権抑圧の非難を国際的に浴びたが,厳しい弾圧政策によってゲリラ運動をほぼ壊滅させた。しかしインフレをはじめとする経済問題を克服するにいたらず,国民の不満は高じるばかりであった。82年4月ガルチエリLeopoldo Fortunato Galtieri大統領はフォークランド(マルビナス)諸島をイギリスから奪還することで国民の不満をかわそうとしたが失敗し,逆に国民の軍政批判を一挙に噴出させる結果となった。82年6月大統領に就任したビニョーネReynaldo Benito Bignone将軍は,民政移管の作業を急ぎ,83年10月大統領選の実施にこぎつけた。この選挙で勝利を収めた急進党のアルフォンシンRaúl Alfonsínは同年12月大統領に就任し,7年ぶりに民政が復活した。アルフォンシン政府は,激しいインフレや累積債務といった重荷を背負って苦しいスタートを切ったが,85年6月にはインフレ克服のために物価と賃金の凍結を含む厳しい安定政策(アウストラル・プラン)の実施に踏み切った。この政策は当初物価の鎮静化にある程度の成果をあげたが,のちに未曾有の物価上昇を招いて失敗に終わった。89年5月の総選挙では,ペロニスタのメネムが勝利し,インフレの克服に成功するが,引締めを基調とするその政策は失業率を著しく高めたことなどからしだいに国民の批判を浴び,97年10月の下院議員選挙では12議席を失った。
執筆者:

両国の外交関係は1898年の日亜修好通商条約の締結をもって始まった。日露戦争時アルゼンチンは軍艦2隻を日本に移譲,同軍艦は〈日進〉〈春日〉として多大の戦力を発揮した。1913年日本からアルゼンチンへ直接渡航が開始され,35年農商業部門の外務省実習生派遣制度が始まった。第2次世界大戦前の日本人移住者は約5400人。アルゼンチンは第2次世界大戦中長い間中立外交を堅持したが,連合国側からの圧力の下,ついに44年1月枢軸国に対して国交断絶,45年3月には宣戦布告に踏み切った。終戦後両国は52年4月に国交を回復,61年フロンディシ大統領訪日の際,移住協定が結ばれた。現在の同国在住日系人は3万人強,日本国籍保持の移民が1万5000人とされ,うち沖縄出身者が7割。おもな就業分野は洗染業,花卉栽培,商業など。貿易・投資関係は従来から希薄であったが,70年代に入りやや前進がみられる。日本からのおもな輸出品は輸送機器,光学機器など。また輸入品は穀物,魚介類,アルミニウム,木材など。その他電力,鉄道,電信電話,漁業,畜産,保健・医療,環境・衛生などの分野で両国間の経済協力が進んでいる。日本からの政府開発援助は技術協力が中心で,日本はイタリア,ドイツ,スペインに次ぐ主要援助国である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「アルゼンチン」の意味・わかりやすい解説

アルゼンチン

◎正式名称−アルゼンチン共和国Argentine Republic。◎面積−278万400km2。◎人口−4012万人(2010)。◎首都−ブエノス・アイレスBuenos Aires(289万人,2010)。◎住民−白人(主としてスペイン人,イタリア人)97%,インディオ,メスティソ3%。◎宗教−カトリック(国教)95%。◎言語−スペイン語(公用語)。◎通貨−アルゼンチン・ペソArgentine Peso。◎元首−大統領,マウリシオ・マクリMauricio Macri(1959年生れ,2015年12月就任,任期4年)。◎憲法−1994年8月制定。◎国会−二院制。上院(定員72,任期6年,2年ごとに3分の1改選),下院(定員257,任期4年,2年ごとに半数改選)。2009年6月下院改選後の議席分布,正義党(ペロン党)129,急進党61,共和国平等党13など。◎GDP−3284億ドル(2008)。◎1人当りGDP−5475ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−9.1%(2003)。◎平均寿命−男72.6歳,女79.9歳(2013)。◎乳児死亡率−12‰(2010)。◎識字率−98%(2008)。    *    *南米大陸南東部の共和国。スペイン語ではアルヘンティーナと呼ぶ。西部にアンデス山脈が南北に走り,山麓にステップと砂漠の地帯が続く。北東部はチャコ,中東部はパンパ,南部はパタゴニア。内陸部の乾燥地帯を除くと全般的に気候に恵まれる。住民はスペイン,イタリア系の白人が大部分でスペイン語を話し,先住のインディオは2万〜3万人。農業,牧畜が行われ,小麦,トウモロコシが主産物。肉類の輸出では世界有数。羊毛,カゼインなども輸出する。近年工業化が進められている。二院制で,元首は大統領。 1516年スペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがラ・プラタ河口を探検,1536年ペドロ・デ・メンドサがブエノス・アイレス植民地建設,1776年ラ・プラタ副王領となり,1810年独立宣言,1816年独立,国名をアルゼンチンに改める。ロサスら連邦派と中央集権派との内戦ののち1853年憲法制定。1946年―1955年ペロン大統領が独裁,クーデタにより失脚。その後,軍政,共和政を繰り返し,1973年―1974年にはペロンが政権の座に返り咲いた。1982年軍事政権が仕掛けたイギリスとのフォークランド(マルビナス)戦争に敗北したのをきっかけに,1983年民政に復帰した。1989年選出された正義党(ペロン党)のメネム大統領は,経済回復に実績をあげ,1991年ブラジルなど周辺3国とともに南米南部共同市場(メルコスール)に参加。〔デフォルト危機〕 1999年就任した急進党のデ・ラ・ルア大統領のもとで2001年通貨危機によって経済・財政危機が深まり,11月には,国債など対外債務返済不履行宣言(デフォルト)を出さざるを得ない状況に陥った。同年12月に民衆暴動のため大統領は辞任,暫定政権を経て正義党のドゥアルデが大統領に就任した。2002年に変動相場制に移行したことによって輸出が着実に拡大,経済は持ち直しの兆しを見せはじめた。2003年5月の大統領選挙で,メネム元大統領とサンタクルス州知事キルチネル(正義党系)の決選投票によりキルチネルが当選。キルチネル政権下で,経済成長は年率8%を達成,20%台に達していた失業率も2006年には11%に改善された。2007年10月の大統領選挙では,経済と社会の安定化を促進したキルチネル大統領の夫人で,正義党の上院議員のフェルナンデス・デ・キルチネルが当選,同国の選挙で選ばれた初めての女性大統領となった。南米諸国からの投資の拡大によって成長を維持する基本政策をとっているが,2008年秋のリーマンショック以後,保護主義的な政策を強め,工業製品を中心に輸入許可制度を導入,外国産品の締め出しを行っており,日本とアメリカは2012年WTOへの提訴に踏み切っている。しかし,内需を中心とした経済回復,また2010年10月に急逝した夫のキルチネル元大統領の意思を引き継ぐ大統領としてのイメージ等もあり,フェルナンデス大統領の支持率は安定的で,2011年10月の大統領選挙では約54%の得票率で再選した。2015年11月の大統領選挙でマウリシオ・マクリが当選し新大統領に就任。12年間続いたキルチネル夫妻による政権は幕を閉じた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルゼンチン」の意味・わかりやすい解説

アルゼンチン
Argentina

正式名称 アルゼンチン(スペイン語ではアルヘンティナ)共和国 República Argentina。
面積 279万1810km2
人口 4580万9000(2021推計)。
首都 ブエノスアイレス

南アメリカ南部の大部分を占める連邦制共和国。南回帰線付近から南極大陸に向かってしだいに幅をせばめながら 3500km以上にわたって細長く延び,西はチリ,北はボリビアパラグアイ,北東はブラジルウルグアイに国境を接し,南東は大西洋に臨む。地形はチリとの国境に連なるアンデス山脈とその東に広がる平地に大別され,北部のアンデス山脈中にはその最高峰アコンカグア山をはじめとする 6000m級の高峰がそびえる。南部の峰は 3000m級に低下するが,山頂には広く氷河氷床が発達。平地部は,草原と低木林に覆われた北部のグランチャコ,同国の心臓部をなす中部の肥沃な温帯草原パンパス,南部の乾燥したパタゴニア台地からなる。北半はほぼ全域ラプラタ川水系に属し,パラナ川ウルグアイ川パラグアイ川ピルコマヨ川ベルメホ川などの川が流れる。南半はアンデス山脈に発して大西洋に注ぐコロラド川ネグロ川チュブト川などの川により排水される。ほぼ全域が温帯気候区に属するが,国土が南北に細長いため,北部には亜熱帯の地域を,南部には夏季でも平均気温 10℃以下の冷涼,寒冷な地域を含む。降水量は全体に少なく,特に西部およびパタゴニア台地は半砂漠・砂漠気候となっている。先住民であるラテンアメリカインディアン(インディオ)や混血がきわめて少なく,住民のほとんどはスペイン系,イタリア系を中心とした白人であり,スペイン語が公用語,キリスト教のカトリックが国教に定められている。豊かな天然資源に恵まれているが,政情不安や慢性的インフレーションなどに悩まされ,経済全体の発展は緩慢。鉱物資源は石油,天然ガス以外は大部分未開発。石油は国営石油公社のもとに南部のコモドロリバダビアなどを中心に大規模に開発が進められ,今日,原油や石油製品はほぼ自給できる。パイプライン網も発達。国内総生産に占める農林漁業の割合はしだいに減少したが伝統的な農牧国であり,輸出面では依然として農畜産物に大きく依存し,特に牛肉とコムギ,トウモロコシを中心とした穀物が輸出総額の約 30%を占める。ほかにサトウキビ,ブドウ,柑橘類,そのほかの果樹などの栽培や牧羊も盛ん。工業は第2次世界大戦後に自動車,金属,化学などの部門で急速に発展。しかし急激な工業化は対外債務によるもので,1989年に累積債務は 656億ドルと国家予算の 2分の1に上り,インフレ率は 6000%と経済的危機に陥った。1990年国際通貨基金 IMFの融資再開と国営企業の民営化などの行政改革,1992年のデノミネーション(1万アウストラルを 1ペソ)などによってインフレは沈静化,2001年末にはデフォルトに陥ったが,再建。陸上交通網はよく発達している。海運も盛んで,大西洋岸にはブエノスアイレス港のほか,ラプラタ港,バイアブランカ港などの大港湾があり,対外貿易の大半を取り扱う。(→アルゼンチン史

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルゼンチン」の解説

アルゼンチン
Argentina

現地音ではアルヘンティーナ。南アメリカ大西洋岸南部の連邦共和国。中央部のパンパ(大平原)の先住民は狩猟民で,貴金属資源がなかったため,長期間ペルー副王領の僻地として放置された。しかし,18世紀後半から,牛皮の生産増大によって,折から商品市場を求めていたイギリス人の関心をひき,密貿易が盛んになった。また,ブラジル在住のポルトガル人の南進に備えるため,1776年ラ・プラタ副王領がペルーから分離された。1806~07年ブエノスアイレスに侵攻しイギリス軍を壊滅させて自信をつけたクリオーリョたちが,南アメリカの独立運動でも積極的な役割を演じ,16年7月9日リオ・デ・ラ・プラタ州連合が独立,これが62年連邦共和国になった。独立後,全面的にイギリスの経済的影響下に入ったが,70年代からヨーロッパ資本によるパンパの開発が始まり,牛肉と小麦の輸出によって巨大な富を獲得した。また多数のヨーロッパ移民を受け入れ,ウルグアイとともに白人国となった。しかし,伝統的な地主層と台頭する都会中産階級の間に政治的軋轢(あつれき)が絶えないため,政情は安定せず,第二次世界大戦後,民族主義的政策を掲げるペロン時代(1946~55年)の経済政策の失敗後は経済が低迷し,ペロン派と反対派の対立が続いた。76年から7年間軍政の強権をへたのち,83年民政に復帰したが,経済危機は深刻化の一途をたどっている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「アルゼンチン」の解説

アルゼンチン
Argentine

南アメリカ大陸の南東部,大西洋に面する共和国。首都ブエノスアイレス
1516年スペイン人によって探検され,36年からその植民地となる。1776年ラプラタ副王領が形成され,1810年植民地会議によって副王を罷免し,独立を宣言した。1816年連邦制をとり,26年憲法を制定して「アルゼンチン共和国」と命名。中央集権派対連邦派の抗争は後者の勝利に終わり,1880〜86年までロカス大統領の繁栄時代を現出。20世紀初頭,国民党と急進党が対立し,後者の政治革新が成功,1912年普通選挙・秘密投票制が実現。第一次・第二次の両世界大戦中は中立を宣言したが,後者のときには,1943年6月まではむしろ枢軸国側に味方した。1946〜55年までペロン大統領の独裁(1973年再選)が続いたが,74年ペロンの死後,あとを継いだペロン夫人イザベルのもとでのインフレ抑止策が失敗し,76年にクーデタで軍事政権が誕生した。この間,対外累積債務が急増して経済が悪化するなか,1982年マルビナス諸島(英名フォークランド諸島)の領有問題から,イギリスとフォークランド戦争(マルビナス戦争)を起こしたが,敗北した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android